週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀・不屈の物語

15球団から勝ち星も、“全球団から勝利”にならなかったサイドハンド/プロ野球20世紀・不屈の物語【1947〜55年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

巨人から移籍して開花した草分け的存在


東映時代の緒方俊明


 2020年は中止になってしまったが、両リーグの交流戦が定着した昨今、すべての球団から勝ち星を挙げることは、珍しい快挙には違いないが、最低でも両リーグで2チームずつに在籍しなければ達成できなかった20世紀ほどの希少性はなくなってしまった。プロ野球が1リーグ6球団ずつ、全12球団となったのは1958年のこと。巨人長嶋茂雄が入団したシーズンだ。それ以前、1リーグ時代は、戦争によって中断するまで球団は減り続けて、44年には全6球団に。46年に全8球団で復活すると、50年の2リーグ分立で全15球団と急増する激動期だった。

 その後は合併や新球団の結成で増減を繰り返す、まさに過渡期。そんな激動期から過渡期にかけて、15球団から勝ち星を挙げた投手に、緒方俊明という右腕がいた。21世紀では、2004年の球界再編で消滅した近鉄、新たに誕生した楽天を含む13球団が最多で、それで全球団になるが、緒方は15球団に勝っても“全球団から”の勝ち星ではない。投手タイトルはなく、通算53勝のサイドハンドだが、その9年という決して長いとはいえない現役生活は、なんとも波乱に富んでいる。この連載でも、巨人から移籍して新天地で花を咲かせた2人の右腕については紹介したが、そんな選手の草分け的な存在でもある。

 熊本県の出身。旧制の熊本商から早大へ進み、地元の熊本クラブでプレーしていたが、47年に巨人へ。この47年シーズン中に黒沢俊夫が死去したことは紹介したばかりだが、巨人はプロ野球が再開されて以降、着実に戦力は整っていったものの、なかなか優勝には届かず、46年はグレートリング(南海)、47年は阪神、48年は南海の後塵を拝するなど、結果につながらなかった。

 ただ、これは緒方も同様で、49年までの3年間で5勝8敗。当時の巨人は南海から移籍してきた川崎徳次、荒れ球の快速球を駆使した中尾輝三(碩志)、のちにプロ野球で初めて完全試合を達成する藤本英雄、そして大騒動の末に南海から加入する別所毅彦ら、多少の入れ替わりこそあれ、充実の投手陣。緒方が彼らの壁を超えられなかった面もあっただろう。だが、2リーグ分立で故郷の九州に西鉄、そして西日本が誕生。緒方は西日本へと移籍することになる。この移籍は覚醒を呼ぶ幸運でもあり、ある意味では悲運でもあった。

独特の足跡を残した大下の移籍騒動


 緒方はピンチでも顔色ひとつ変えないタイプで、クレバーな投球が持ち味。西日本はチーム50勝、セ・リーグ8チーム中6位に終わったが、開幕投手を務めた緒方はセ・リーグ第1号となる三振を奪い、最終的に自己最多の20勝を挙げる。もちろんエースだ。だが、西日本は同じ福岡に拠点を置く西鉄に吸収されて消滅し、緒方も西鉄の所属となった。西鉄1年目はリーグ最多の46試合に登板して11勝。ただ、そのオフ、戦後のプロ野球を引っ張ってきた東急(現在の日本ハム)の大下弘をめぐって政財界をも巻き込む獲得合戦が勃発、トレードで解決しようとしていた西鉄が交換相手として挙げていたのが、スラッガーの深見安博と、緒方だった。

 翌52年のペナントレースが開幕するや否や、大下が西鉄へ移籍することが決まる。緒方は深見とともに東急へと移籍していった。このトレードは、政財界の大物が暗躍するという経緯の異様さもさることながら、結果としてもプロ野球に独特な足跡を残すものとなる。

 大下が西鉄の支柱として黄金時代を呼び込んだこともさることながら、西鉄で2本塁打、東急で23本塁打を放った深見は、プロ野球で唯一となる2チームにまたがる本塁打王に。そして緒方は、新天地で古巣の西鉄に勝って、計15球団から勝ち星を挙げたことになった。

 ただ、“全球団”ではないのは、自身2チーム目の西日本が1年で消滅したため。つまり、西日本に所属した選手はシーズン中に移籍して西日本から勝たない以上、“全球団”には到達できないのだ。とはいえ、15球団という数字だけでも、そう簡単に超えられないものには間違いない。“全球団”と同様、あるいは、それ以上に自身の努力だけでは難しいものかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング