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週べ60周年記念

進まぬ西鉄ライオンズの身売り/週べ回顧

 

 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

1971年二軍動向


ジュニアオールスターでホームランを打った中日大島康徳



 今回は『1971年10月11日号』。定価は100円。
 
 定期的に書いている話になっているが、西鉄ライオンズが、またも身売り話で揺れていた。

 1971年、稲尾和久監督の下、最終的には38勝84敗8分で最下位。
 規定打席到達者は、わずか2人(31人中)で最高が16位の東田正義で.284、もう1人が22位の基満男で.276。
 投手は3人(23人中)で、最高が16位の高橋明で3.73(14勝13敗)。ほか東尾修が17位の3.75(8勝16敗)、河原明が23位で5.45(4勝16敗)。
 ほか規定には達していないが、4勝10敗の三輪悟(4.20)。この4人で38勝中30勝。
 高橋明は巨人から移籍1年目だった。
 これでは最下位も仕方ない。

 ただ、急に弱くなったわけではなく。
 68年から5位、5位、6位と来ての最下位。問題は観客動員だ。
1969年は少ないとはいえ、1試合平均8500人ほどだったが、黒い霧事件があった70年は6000人ちょっと。そして、この年は4000人を割るのではないかと言われていた。
 年間指定席もあり、実際に球場に来ていた平均値は2000人程度とも言われていた。
「正直なところ、いかに熱心にライオンズを応援してくれるファンがいても2000や3000人のお客さん相手では商売になりませんからね」
 とは西鉄重役の言葉だ。

 身売りはすでに動かしがたい方針ながら、西鉄側のネックは「地域貢献」だ。九州密着の運輸サービス業である西鉄にとって、ライオンズ経営は地域のお客さんへの恩返しの位置づけもあった。したがって、身売りするにしても福岡での球団経営に興味がないのでは困る。かつて62年に東芝との業務提携話があったときも、このポリシーから立ち消えになったという。
 ほかにもいくつか興味を示したところもあったようだが、折からのドルショックもあって二の足を踏んでいたらしい。
 1ドル360円の固定相場が崩れ、日本の輸出産業は壊滅的な打撃を受けるだろうと言われていた。

 イースタン・リーグではヤクルトが初優勝を飾ったが、監督が異色だ。
 田口周。プロ経験はなく、元スポーツ新聞記者で、日大三高監督として甲子園出場にも導いた男だ。
「選手とわれわれの心が通ったときが一番うれしかった。でも優勝はファームの最終の目標じゃない。ファームにはこれで終わりじゃないんだから」
 と田口監督。プロ経験がない監督に、選手も最初は抵抗があったのかもしれない。

 一方もウエスタンは中日が独走でV。この年は大分出身同学年の2人のバッターが注目された。 
 1人は打率.345で首位打者の大田卓司(西鉄)、14本塁打、39打点で本塁打王、打点王の大島康徳(中日)だ。
 ともに一軍では本領発揮といかなかったが、次年度以降の活躍が期待されていた。

 では、またあした。

<次回に続く>

写真=BBM
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