歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 第4戦で涙、第7戦で笑顔
1993年の日本シリーズは、80年代から黄金時代を謳歌していた
西武と、その80年代は対照的に下位を低迷することが多かったが、前年の92年に14年ぶりのリーグ優勝を果たしたヤクルトの、2年連続となる顔合わせだった。92年は西武が王者の貫禄を見せて日本一に輝いたが、対するヤクルトも3勝4敗と善戦。このときの力投でファンの心を震わせた
岡林洋一については、この連載でも紹介した。一方、この92年、ヤクルトのエースナンバー17を背負いながらも、まったく優勝に貢献できなかった右腕がいる。ペナントレースで登板なしに終わった川崎憲次郎だ。
92年はプロ4年目、21歳で迎えたシーズン。1年目から高卒ルーキーながらも23試合に登板して4勝、2年目には新たに就任した
野村克也監督の下で先発ローテーションに定着、初の2ケタ12勝を挙げ、3年目の91年には14勝、リーグ6位の防御率2.91と、エースナンバーにふさわしい活躍を見せた早熟の右腕だったが、その92年のキャンプで右足をねんざ、これが右ヒジ疲労骨折の遠因となってしまう。新たなエースに名乗りを上げた早咲きの右腕がVイヤーに不在という皮肉。戦って敗れたわけではない。敗れる前に、戦うことすらできなかった誰よりも負けず嫌いな右腕が、誰よりも93年に懸ける思いも強かったことは想像に難くない。
痛みは完全に消えなかったが、93年のペナントレースも後半に入って、先発ローテーションにも返り咲いた。前年のヒーローでもある岡林が故障に苦しむ中、その穴を埋めていく。「前年、悔しい思いをしているので、とにかく必死でした」(川崎)と、最終的には10勝。ヤクルトも9月下旬からの11連勝で、猛追してきた
中日をかわしてリーグ連覇を達成した。そして日本シリーズ。2勝1敗で迎えた第4戦(神宮)で、川崎は先発のマウンドを託される。
飯田哲也の好守などもあり、
池山隆寛の犠飛で奪った貴重な1点を守り抜く完封勝利。お立ち台では涙が止まらなかった。ただ、そこから西武も意地を見せて連勝。日本一の行方も2年連続で第7戦にもつれこむ。
ヤクルトと西武、ともに3勝3敗で迎えた第7戦(西武)でも、先発のマウンドには川崎の姿があった。1回表にヤクルトは
広沢克己の3ランで先制。その裏には西武も
清原和博の2ランで反撃を開始したが、川崎は後続を抑え、最後は
高津臣吾の好リリーフでヤクルトが15年ぶりの日本一に。MVPに選ばれた川崎は「第4戦の後に流し尽しましたから」と言って笑顔を見せた。だが、運命の皮肉は続く。ヤクルトは95年にもリーグを制したが、川崎は徐々に失速していった。
98年に17勝も……
98年は17勝を挙げて最多勝、沢村賞に輝く
快速球と高速フォークで三振の山を築く本格派。速球にもこだわりがあった。だが、右ヒジ手術もあり、復活を懸けて習得したのが
シュートだ。「三振を狙っていきたいタイプだったんですが、あまりにも打者が詰まるから、内野ゴロの打たせ方に目覚めてしまって(笑)。どういうゴロを、どこに打たせようか、と考えるようになりました。最初は打者も気づかなかった。僕も『真っすぐだよ』と内緒にしていましたし(笑)。98年の中盤あたりから、どこかの打者が『あれ、曲がってるぞ』って言い始めたんです」(川崎)。
Vイヤーの97年は7勝にとどまったものの、翌98年には自己最多、背番号と同じ17勝を挙げて、目標だった最多勝のタイトルを獲得、沢村賞にも選ばれた。ただ、ヤクルトは4位に転落。独特な皮肉の物語は、その後も続いた。
もともと
巨人ファン。ドラフトで巨人とヤクルトが1位で競合、ヤクルトが交渉権を獲得すると、「よし、巨人を倒すぞ」と思ったという。そして巨人に通算29勝24敗という巨人キラーに成長した。21世紀にはFAで中日へ移籍し、故障。嫌がらせのような組織票で球宴にファン投票で選ばれて、出場を辞退する騒動もあった。それでも、
落合博満監督が就任すると開幕投手に選ばれ、オフに引退。負けず嫌いも変わらなかったが、ヤクルトとの引退試合で両チームの選手に胴上げされて、また涙を流した。
文=犬企画マンホール 写真=BBM