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プロ野球20世紀・不屈の物語

西武に黄金時代を呼び込んだ「左打者に最も強い」左腕/プロ野球20世紀・不屈の物語【1972〜90年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

77年にキャリア唯一の規定投球回も



 巨人で「左投手に弱い」というレッテルに苦しんだ左打者の淡口憲治については紹介した。この「左打者は左投手に弱い」という説は軽々しく一般化しないほうがよさそうだが、逆に「左打者に対して異様に強い左投手がいる」というのは真実だ。もちろん、すべての左投手が左打者を得意としているわけではないだろうが、20世紀のプロ野球には、左打者、特に外国人の強打者をカモにして“最強の左キラー”とも言われた左腕がいた。西武の永射保だ。

 近年では投手分業制は完全に定着し、左のワンポイントは一般的な作戦だが、永射が頭角を現した当時は、投手陣は役割ではなく序列で分けられていた時代だ。投手は先発して完投するのが当たり前で格上、リリーフは先発で失格となった格下の投手に与えられる仕事と思われ、実際ほとんどのチームが、こうした意識で回っていた。そんな時代にあって、永射は長い時間を懸けて“左打者に最も強い左腕”の地位を確立していく。

 もちろん、左のセットアッパーを目標にプロ入りしたわけではない。ドラフト3位で1972年に広島へ入団。徹底的に走らされ、「あれで下半身ができたから、どんなフォームにも対応できたんだと思う。俺の基本は広島時代にあった」(永射)と振り返るが、その1年目から一軍デビューも、一死も奪えないまま被安打1、1失点で降板した。この72年、広島のエースは外木場義郎。4月29日の巨人戦(広島市民)で完全試合を含む自身3度目、プロ野球タイ記録となるノーヒットノーランを達成した投球を見て、「プロでやっていけるか不安になった」(永射)という。そして「当時、(同じ左腕で)ヤクルト安田猛さんが遅い球で王(貞治。巨人)さんと勝負しているのを見て、これもいいなと思った」(永射)と、速球派を断念、サイドスローに挑戦する。

 74年に太平洋へ移籍。このときのパ・リーグには、黄金時代の阪急を引っ張るアンダースローの山田久志がいた。永射は山田が投げているビデオを入手。山田は右腕のため、テレビの前に鏡を置いて山田のフォームを研究した。当時の山田は快速球が最大の武器。山田ほどの速球がない永射は、踏み込む足を少し遅らせるなど試行錯誤を繰り返した。「自分のものにするのに4年かかった」(永射)と振り返るように、結果が出たのはチームがクラウンとなった77年。先発でも活躍して9勝6セーブ、規定投球回に到達したが、これは本領ではなかった。

左のワンポイントが増えた82年に


西武時代の永射のピッチング


 そして79年、クラウンは西武となり、福岡から埼玉へ移転。永射は以降3年連続でリーグ最多登板、80年は2度目の規定投球回にも迫ったが、翌81年からはリリーフが中心になっていく。生命線は、「俺はプロで10年できると思った」(永射)という、左打者の背中に当たりそうな角度からストライクゾーンに入ってくるカーブ。これを「まったく打てる気がしなかった」というのは、永射に苦しむあまり右打席に入ったこともあるロッテのリーだ。

 ただ、これには伏線がある。永射はリーとの初対決で、わざとヒジにぶつけて体を引かせ、その後は牛耳るように。リーは来日1年目の77年こそ永射から本塁打を放っているが、2本目は7年後の84年。ふだんは本塁打の後も淡々と塁を回るリーも、このときはジャンプしながらガッツポーズを見せた。一方、日本ハムの“サモアの怪人”ソレイタは来日1年目から歯が立たず。その80年にプロ野球新記録の5打席連続本塁打に迫ったが、その5打席目に立ちはだかったのが永射。「俺の顔を見たら涙目になっていた」(永射)というが、ソレイタは永射に16打数で無安打、通算でも打率.116、本塁打なしと抑え込められている。

 左のワンポイントが急増したのは広岡達朗監督となった82年から。ただ、当時のパ・リーグは前後期制だったが、前期優勝の天王山となった6月23日の阪急戦(西宮)では先発して勝利投手に。これでマジック2とした西武は2日後の25日に前期優勝を決め、プレーオフ、日本シリーズを次々に制して日本一に。そこから西武は黄金時代へ突入していく。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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