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プロ野球20世紀・不屈の物語

江川の球宴タイ記録を阻止した名場面から振り返る……右腕が苦しんだ打者としての悪夢/プロ野球20世紀・不屈の物語【1964〜65年&84年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

権藤が移籍して1年目の東映で


1984年の巨人江川卓


 プロ野球で活躍する選手たちの目標はチームの勝利、さらには優勝であって、個人の記録、ましてや対戦する相手の記録のためではないだろう。ただ、その一方で、野球は記録のスポーツと言われるほど、プロ野球と数字とは不可分の一体にある。数字はファンにとってもプロ野球を楽しむためのツールであるはずなのだが、ゲームの勝敗そっちのけで数字に注目し、プロ野球が数字を楽しむためのツールというファンも少なからずいるのではないか。それもまたプロ野球の楽しみ方だろうし、それほど数字には魔力にも似た魅力があるものなのだろう。

 そんな“魔力”には、選手たちも無縁ではいられない。チームのことを最優先に考えていたとしても、自身の数字に一喜一憂してしまう、というのも人情だろう。これが相手の数字であっても同様で、少なからずプレーにも影響が出てしまうこともある。たとえば、1984年のオールスター第3戦(ナゴヤ)。巨人の江川卓が、71年に阪神江夏豊が樹立したオールスター記録の9連続奪三振に迫ろうとした試合といえば、昨日のことのように思い出すファンもいるだろう。最終的には8連続にとどまったが、このとき9人目の打者となったのが近鉄の大石大二郎だった。

 2球ストレートで早くも2ストライクと追い込まれた大石は、3球目のカーブをバットを投げ出すようにして二ゴロ。凡退はしたものの、球宴タイ記録を阻止することには成功した。ただ、このときの舞台はオールスターであり、この試合でも、ペナントレースでは江川のライバルとして名勝負を繰り広げている阪神の掛布雅之が遊撃を守るなど、まさに“夢の球宴”。これがペナントレースなら、大石も当てることが目的というような打撃はしなかったはずだ。さらには、江川の場合は、懸かっていたのは名誉の記録。これがペナントレースで、不名誉なものであれば話は変わってくる。

 3年間、729日にまたがる28連敗に苦しんだ大洋の権藤正利については紹介したばかりだが、権藤が東映(現在の日本ハム)へ移籍した64年に、その東映で不名誉な投手の連続記録が始まった。ただし、悪夢の長いトンネルで苦しんだのは投手だったが、投手記録ではない。パ・リーグに指名打者制が導入されて45年が経った。この2020年でプロ野球が始まって85年目になるから、気づけば指名打者制がなかった時代よりも長い時間が経ったが、それよりも昔、パ・リーグでも投手が打席に入っていた時代に紡がれた、不屈の物語だ。

20勝の大台を突破も、話題は……


 悲劇の主役は嵯峨健四郎。60年に東映へ入団したプロ5年目の右腕だ。63年にプロ初勝利を含む6勝を挙げて一軍に定着すると、迎えた64年に21勝を挙げてブレーク。ただ、近年では20勝を超えれば大騒ぎだが、当時も投手の勲章ではあったものの、それほど珍しくなかった時代だ。注目を浴びたのは勝ち星ではなく、その打席だった。

 とにかく打てない。最終的には77打席連続無安打というシーズンのプロ野球新記録で閉幕。悪夢は終わらない。翌65年も嵯峨は自身の記録を更新し続ける。対戦する投手たちも、嵯峨が打席に入ると、ほかの投手に投げるのとは明らかに違っていた。あまり例のないことなので表現が難しいのだが、嵯峨と対戦した投手たちは皆、不名誉な連続記録を阻止する安打を献上した投手として球史に名を残したくなかったはずだ。打席にいるのが投手なら力を抜いたピッチングをすることも少なくないが、嵯峨が打席に入ると、容赦なく攻め立てる。

 権藤が胃を壊したことも紹介したが、これは嵯峨も同様だった。バットの不振は胃腸だけでなく、ピッチングにも影を落としていく。64年は21勝9敗と貯金を稼いだ男が、65年は2勝8敗と急失速。最終的に連続シーズンのプロ野球記録としては90打席連続無安打でストップしたが、64年のシーズン77打席とともに、現在もプロ野球記録として残る。権藤は3年にわたったが、2年で終わったのは不幸中の幸いだろうか。その翌66年、嵯峨は17勝9敗と復活を果たしている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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