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プロ野球20世紀・不屈の物語

国鉄、サンケイ、そしてヤクルト。スワローズ復活5年目の初優勝へ/プロ野球20世紀・不屈の物語【1950〜78年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

長かった国鉄の暗いトンネル


1978年、ヤクルト初優勝を飾り、胴上げされる広岡監督


 プロ野球のチームに冠されているニックネームは雄々しいものが多数派を占めるが、強そうな印象はあるものの、身近とはいえないものばかりだ。一方、ヤクルトのニックネームはスワローズ、つまりツバメ。飛燕という言葉はあり、武芸の形容にも使われるが、虎や竜などに比べれば圧倒的に可憐であり、筆者も少年時代には不思議に思ったものだ。時には駅に巣を作り、それを皆で見守るような身近な存在でもある。その由来はヤクルトが国鉄だった時代、特急の“つばめ”だ。国鉄というのも、多彩な特急が各地を結んでいたのも、今や遠い歴史の1ページだが、これを若い読者に向けて解説していると、さすがに長くなるので割愛。JRの駅に作られたツバメの巣を見て国鉄スワローズに思いを馳せるのは、相当ベテランのプロ野球ファンだ。

 プロ野球に参加したのは1950年のこと。2リーグ制に向けて加速していた49年11月、審判員の西垣徳雄が、国鉄の総裁で野球が好きだった加賀山之雄と列車に乗り合わせたときに、「国鉄さんも球団を作ってみたらどうですか」と言ったことがきっかけで、国鉄にトラブルが続いていたこともあって、「社員のレクリエーションになる」と、各地の鉄道局から選手を集めて50年1月25日に結成された。ニックネームはスワローズに決定。ちなみに、ほかにはレールウェーやホイッスルといった候補もあったというが、列車が発車するときに駅員さんがホイッスルを吹くのも歴史の情景だろうか。

 ともあれ、国鉄はセ・リーグに参加。西垣が監督に就任して3月10日には開幕を迎えたが、プロ経験者は戦中に阪急(現在のオリックス)で2年間プレーした中村栄のみ、もちろんプロ野球はレクリエーションの意識で通用するわけもなく、いきなり14連敗を喫した。ただ、親会社は全国津々浦々に浸透し、地方への遠征では熱烈な歓迎を受け、資金も潤沢。国鉄はシーズン中から補強を始めた。この50年8月に高校を中退して入団したのが、のちに巨人でプロ野球記録の通算400勝を達成した左腕の金田正一だった。国鉄は資金難に苦しむ広島は上回って8チーム中7位。最下位は免れたものの、以降も低迷は続いた。

短かったアトムズ時代


 その後も多彩な選手たちが入団してきたが、やはり突出していたのは金田だ。優勝とは無縁のチームにあって、最多勝と最優秀防御率は3度ずつ、最多奪三振は10度を数え、51年から64年まで14年連続で20勝を超えた。だが、その64年オフが国鉄にとっても金田にとっても転機となる。国鉄は列車事故もあって経営難に陥っており、63年から産経新聞とフジテレビが経営に参加していたが、経営陣の対立で64年オフに金田が巨人へ移籍、国鉄は経営から撤退して65年5月10日にはチームもサンケイスワローズとなった。

 オフにニックネームのスワローズも廃止され、フジテレビで放映されていた伝説的なアニメ『鉄腕アトム』からサンケイアトムズに。ユニフォームにも鉄腕アトムがあしらわれた。だが、産経新聞も3年あまりで経営の前面から退いて、オフにはヤクルトに経営権を譲渡。69年にはニックネームのみのアトムズとなり、70年にはヤクルトアトムズに。スワローズが復活したのは73年オフ。このとき監督として誘われたのが巨人で名遊撃手として鳴らした広岡達朗だった。

 結局、広岡はコーチ、その早大の先輩でもある荒川博が監督となり、スワローズは再出発。翌74年には61年に続く2度目のAクラス3位と浮上した。広岡が監督に就任したのは76年シーズン途中。翌77年には2位に躍進すると、続く78年には初優勝、日本一に。球団の創設からは29年目、スワローズが復活して5年目の歓喜だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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