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プロ野球20世紀・不屈の物語

身長175センチの“テスト生”、猛虎の主砲に。若かりし日の掛布雅之/プロ野球20世紀・不屈の物語【1973〜79年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

閉ざされた前途



 習志野高2年の夏には甲子園に出場したが、3年では届かず。身長175センチと小柄だったこともあったのか、掛布雅之にプロからの誘いはなかった。1973年のことだ。のちの活躍からは信じられない話だが、そんな高校3年生の前途は閉ざされていた。未来のことは誰も分からない。この少年が、プロ野球で通算349本塁打を放つことになるとは、誰も思っていなかった。誰からも可能性を認められていなかった少年が、このとき夢をあきらめていたら、プロ野球の歴史は間違いなく変わっていたはずだ。ただ、父親の伝手をたどり、阪神の安藤統男(統夫)がいたことで、運命の歯車は回り始める。安藤は62年に入団し、長く控えに甘んじていた苦労人。70年に初めて規定打席に到達し、この73年いっぱいで現役を引退している。1年でもタイミングが違っていたら、やはり歴史は違っていたかもしれない。

 少年は阪神の秋季キャンプに参加。これが“テスト”だったが、そんな少年を見ていたのが、何かと毀誉褒貶も多い金田正泰監督だ。少年はドラフト6位で指名され、入団。だが、春のキャンプには連れていってもらえず、甲子園で居残り。初めて一軍の練習を見たとき、周囲の選手たちが皆、化け物のように大きく見えたという。「特に田淵(田淵幸一)さんは2メートルあると思ったくらい。俺の入るべき世界じゃなかったのかな、と不安になりました」(掛布)と振り返っているが、田淵に「プロは小さくても、うまくなれるから面白いんだ」と言われたことが励みになる。同時に田淵は自分のバットをプレゼント。田淵の言葉とバットは、18歳の若者には宝物だった。

 すぐにチャンスも到来。オープン戦で正遊撃手の藤田平が結婚式に出席するため欠場、控えの野田征稔には不幸があって帰郷したことで一軍へ。まずは代打で結果を出し、遊撃手として先発で出場しても打ちまくって、まさかの開幕一軍。かつて巨人長嶋茂雄がプロ初打席から4打席連続で三振も、勝者のはずの国鉄の金田正一が、その豪快な空振りに将来性を感じたという有名なエピソードがあるが、似たものが中日星野仙一との間にある。「初対決はセカンドゴロに打ち取ったはずだが、1球目、ものすごいスイングでファウルチップ。こいつは大物になる」(星野)と感じたという。

打率よりもホームラン


 その後は同期で中大からドラフト1位で入団した佐野仙好と激しい三塁のポジション争い。コーチとなった安藤から猛ノックを受け、練習で疲れ果てて肝心の試合中に居眠りしたこともあった。決着は76年。オープン戦から好調で、佐野を外野へと追いやって、三塁のレギュラーに定着する。純朴な笑顔の若者は、打席に入ると、まさに猛虎のような目に変わり、その姿にファンは魅了された。甲子園球場は若虎フィーバー。声援は主砲の田淵を上回り、“掛布コール”は名物となっていく。最終的には初めて規定打席にも到達してリーグ5位の打率.325、27本塁打、83打点。翌77年にはヤクルトとの開幕戦でエースの松岡弘から満塁本塁打を放つ劇的なスタートを切り、最後は2年連続のリーグ5位となる打率.331をマークする。

 翌78年にはオールスター初の3打席連続本塁打。強烈なフルスイングからの長打力も魅力だったが、最大の武器は安定感だった。だが、最後まで首位打者のタイトルはない。そのオフ、田淵が西武へ衝撃のトレード。求められたのはシュアな打撃ではなく、田淵のような豪快なホームランだった。迎えた79年はリーグ2位の打率.327ながら、48本塁打で本塁打王。初のタイトル獲得は、新たに“ミスター・タイガース”の宿命を背負ったことを意味していたのかもしれない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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