歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 シーズン中から身売りの噂も
21世紀の話になるが、2017年、
西武の
森慎二コーチがシーズン中に急逝、ナインやファンが悲しみに包まれたのは記憶に新しい。それでも選手たちは前を向いて、自らの仕事をまっとうしたが、動揺がなかったはずもなく、
辻発彦監督1年目、新たな歴史を刻もうとしていた西武にあって、選手たちが受けた心理的な影響は想像に難くない。これが、もし深刻な低迷が続き、チームも二転三転しているような時期だったとしたら、もともと苦しんでいるところへの悲しみの深さは想像を絶する。現在は西武として埼玉は所沢に本拠地を置くライオンズだが、その九州でのラストイヤー、1978年は、そんな大きな悲劇から始まった。
春のキャンプ初日に、
江田孝コーチがグラウンドで体調不良を訴え、病院へ運ばれたが、そのまま急逝。江田コーチは江田貢一の登録名で50年にセ・リーグ初代王者となった松竹で23勝を挙げた右腕で、クラウンでは投手コーチを務めていた。ライオンズは西鉄だった63年のリーグ優勝を最後に失速、69年10月には“黒い霧事件”が勃発し、兼任監督を務めていた
中西太が現役を引退して監督も退任、黄金時代を象徴する鉄腕の
稲尾和久も引退して監督に就任する。
73年からは太平洋となって、
ロッテとの“遺恨試合”で良くも悪くもファンを沸かせたりもしたが、優勝とは無縁のまま77年にはクラウンに。だが、低迷からは脱却できず2年連続で最下位に沈み、そんな厳しい状況で迎えたのが78年だった。新たに
根本陸夫監督が就任し、再起を期したばかりの悲劇。選手たちは必死に前を向いたものの、投手陣にはアクシデントが続いた。
エースの
東尾修は右ワキ腹を痛め、72年に初の日米間トレードで2年間、米マイナーでのプレーを経験した速球派右腕の
浜浦徹が血行障害で離脱、西武で“左キラー”として活躍した印象も強いが、77年は先発としても活躍して9勝を挙げていた
永射保は肝炎に苦しむ。さらに、シーズン中にもかかわらず、絶えず身売りの噂がささやかれた。だが、そんなチームの起爆剤として打線が奮起する。根本監督の積極的な起用も打線を活気づけた。
東尾は23勝で復活したが……
開幕戦で三番打者に抜擢されたのが2年目の
立花義家。“19歳の三番打者”と騒がれ、その後は打順こそ二番に回ったものの、右翼のレギュラーに定着する。かつて近鉄で“18歳の四番打者”と言われた“本家”
土井正博は、新たに“34歳の四番打者”として5月14日の
日本ハム戦(後楽園)から6試合連続本塁打でパ・リーグ記録に並び、通算400本塁打にも到達した。
中日ではトラブルメーカーだったデービスも三番打者として機能し、85年に“猛虎フィーバー”の
阪神をリードオフマンとして引っ張る
真弓明信も、初めて一番打者としてレギュラーとなり、前年の外野から本職の遊撃に戻って本領を発揮する。そんな真弓と、指名打者として打率.303でリーグ9位の土井がベストナインに選ばれた。
投手陣では、東尾が徐々に調子を上げて、近鉄の
鈴木啓示と最多勝を争う奮闘。最終的にはタイトルこそ逃したものの23勝を挙げて自身2度目の20勝クリア。だが、東尾に続いた
山下律夫が6勝、
五月女豊が2勝という投手陣では長期戦を勝ち残れなかった。前期は4位に滑り込んだものの、後期は9月に10連敗を喫するなど5位。シーズン通算でも3年連続Bクラスの5位に終わった。
球団の西武への売却、そして本拠地の移転が報じられたのは10月12日、正午のことだった。その後10年間、ダイエーが移転してくるまで、九州にプロ野球チームはなし。一方、西武となったライオンズは82年には日本一に輝くことになる。
文=犬企画マンホール 写真=BBM