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プロ野球20世紀・不屈の物語

“権藤さん”の真骨頂。横浜38年ぶり日本一の“セットアッパー・ローテーション”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1998年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

チーム完投8の横顔


横浜・権藤博監督


 横浜の38年ぶり優勝、日本一に貢献した1998年のスターター陣、その“三本柱”というべき野村弘樹斎藤隆三浦大輔については紹介したばかりだが、もちろん先発ローテーションを任されたのは、この3人だけではない。開幕投手を任された川村丈夫も規定投球回に到達して8勝、規定投球回には届かなかったものの戸叶尚が7勝を挙げている。このスターター陣の特徴は、完投の少なさだった。開幕戦を川村が完封して以来、2度目の完投は6月24日の三浦で、最終的にチーム8完投と、12球団で最少。ただ、これはスターター陣に完投の能力がなかったわけではない。いや、厳密には実際に完投していないので未知数なのだが、この98年の横浜には完投にこだわるが必要なかったのだ。

 もちろん、それには“大魔神”佐々木主浩の絶対的な安定感も大きい。ただ、出番は勝ちゲームの9回、イニングまたぎでも8回二死でクリーンアップが相手の場面に限られていて、その間をつなぐセットアッパーが充実していたのも、この98年の横浜の特徴だった。故障から戦列に復帰したばかりの斎藤もセットアッパーとしてスタートしたが、すぐに先発の一角を占め、佐々木は自責点ゼロのまま連続セーブを続ける絶好調。こうした状況にあって、セットアッパー陣にも“ローテーション”が確立されていく。

 先発でもローテーションが当たり前なのだから中継ぎでローテーションを組むのは難しいことではない、などと簡単に考えてはいけない。当たり前のことのようだが、スターターは、どの登板でも、相手の得点はゼロ、打順は一番から始まり、もちろん走者はいない場面で投げ始める。個々のコンディションや雨天など計算しきれない部分もあれど、そうそう予定が狂うこともない。

 一方で、セットアッパーはイニングも点差も打順も走者も、試合ごとに状況が違う。試合も中盤ながら一打逆転のピンチという場面ならまだしも、ビハインドを抱えて、勝つ可能性も希薄な場面もあっただろう。それでも投げるのがプロと突き放すこともできよう。試合を終わらせるのも必要な仕事であり、それまでの多くのチームは、こうした場面で“格下”の投手を“敗戦処理”のマウンドに立たせてきた。だが、権藤博監督は、それをしていない。

「やせ我慢の一言」


横浜・島田直也


 この連載では、“権藤、権藤、雨、権藤”と評された権藤監督の現役時代についても紹介している。酷使で短命に終わった名伯楽は、「肩を痛めたことで投手の苦しみが分かった。ここから、私の『優しく、厳しく』という指導が生まれたんです。ちょっと間違うと『甘やかし、いじめる』になってしまう。ここが難しい」と語る。そして、「中継ぎ投手といえども、すべての力を発揮させるには(登板の)間隔を空けてやることが重要。そのローテを守っていれば勝ちゲームに使う投手も固定されることはない。だからウチには敗戦処理は1人もいないんです」とも。

 ただ、これも言葉にすれば簡単に見えるかもしれないが、刻一刻と状況が変化していく中、ローテーションをやりくりするのは容易ではなかったはずだ。事実、権藤監督は「やせ我慢の一言」と表現している。そして、こうした采配にセットアッパー陣は応えていった。

 登板の多い順に、横浜で故障から復活した右腕の島田直也、佐々木に似た投球スタイルで“小魔神”と呼ばれた右腕の横山道哉、近鉄のエースで巨人を経て横浜で復活した左腕の阿波野秀幸が50試合、マウンドでの立ち姿も独特な“ヒゲ魔神”五十嵐英樹、チーム初の逆指名で入団した左腕の河原隆一が30試合を上回り、打撃投手から支配下に復帰した右腕の西清孝が続く。島田が投げれば横山が休み、阿波野が休めば河原が投げるなど、いずれも投げては休み、休んでは投げてを繰り返しながら、シーズンを投げ抜いた。異色だったのは左腕の関口伊織。セットアッパーとしてだけでなく、スターターとして1完封もあった。

 ちなみに、この98年の佐々木は51試合に登板。島田や横山、そして阿波野と大きく登板数が変わらないのは、決して偶然ではない。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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