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平成助っ人賛歌

現在ならもっと評価? 阪神暗黒期の救世主、台湾の“銀腕エース”郭李建夫/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

「ライバルは西武の郭泰源」



 先日、甲子園の巨人戦で阪神タイガースのロベルト・スアレスが球速160キロを記録した。

 今季は新型コロナウイルスの感染拡大により、外国人選手の出場選手登録枠も4人から5人に増え(ベンチ入りは4人のまま)、助っ人リリーバー勢の活躍も目立つ。テレビでその様子を見ながら、時代は変わったのだと思った。かつて、阪神には「出た!145キロ」と関西スポーツ新聞の1面を飾った投手がいた。90年代に来日した郭李建夫(かくりたてお)だ。えっ155キロでも165キロでもなく145キロで1面って……と思わず真顔で突っ込みたくなるが、郭李は92年バルセロナ五輪で、台湾のエースとして日本代表チームをシャットアウトするなど獅子奮迅の快投で銀メダル獲得に貢献。国民的英雄となった23歳の“銀腕投手”には、巨人、中日西武に加え、米大リーグのドジャースとブルージェイズからも誘いがあったという。

 そんな中、4年間にもわたり自身を追い続けた阪神入りを決断。1993年(平成5年)、Jリーグ開幕でサッカー界はゲーリー・リネカーやピエール・リトバルスキーといった大物サッカー選手たちが続々と来日したが、野球界の注目助っ人は虎の新エースを期待された郭李である。春季キャンプのブルペンで球速140キロ台を出しただけで、デイリースポーツはトップニュースで報じ、「ライバルは西武の郭泰源」と書き立てた。

 身長185センチ、体重95キロのパワーピッチャー。アマ時代は、「分かっていても打てないフォーク」(山中正竹・全日本代表監督)と恐れられたが、プロのシート打撃でその伝家の宝刀フォークボールを投げると、中村勝広監督は「絶品だ!」なんつって驚愕。打者の関川浩一まで「佐々木(横浜)より凄いですよ」なんて大げさに脱帽してみせた。3月17日のオープン戦初登板の巨人戦では、ルーキー・松井秀喜から三振を奪うなどフォークやスライダーが冴え3回1安打無失点の好投を見せる。

立ちはだかった“PKO問題”


郭李のピッチング。タフな投手だった


 そんなベールを脱いだ噂の怪物投手の前に立ちはだかったのは、外国人選手枠争い(当時の一軍登録は2人まで)である。前年2位と躍進したチームの主軸、オマリーパチョレックとの争いは当時の社会問題だった国連平和維持活動と絡め、阪神の“PKO問題”と呼ばれ虎党は盛り上がった。郭李が表紙を飾る『週刊ベースボール』93年3月8日号の超ド級右腕に肉迫インタビューでは、自身の置かれた立場に「3人の中で、だれを起用するかは監督が決めることであって、その決定に従うしかないと思います」と発言。

「今年は一軍に出られないかもしれないけど、そのときはファームでもやることはあります。日本の野球に慣れること。そして、日本のプロ野球を勉強すること。1年間は、それが自分にとっていいことかもしれないのだから……」

「オマリー選手もパチョレック選手も、去年、十分な活躍をして、いい成績を残しているでしょう。何度も言うようですが、3人がどんな使われ方をするかは、あまり考えてませんね」

 そう自分に言い聞かせるように言葉を並べる郭李だったが、周囲は加熱する。キャンプ地に台湾球界関係者が姿を見せタイガース側にプレッシャーをかけ、「阪神との契約は一軍登用が条件だった。守られなかった場合は、一台湾選手の処遇問題に留まらず、日台関係にヒビが入る」なんて報道が出て物議を醸すほど、当時の台湾の至宝への注目度は高かった。しかしチーム編成上、クリーンアップを打つオマリーとパチョレックは外せず、郭李は開幕二軍スタートとなる。

 さっそく『“息子”郭李が二軍でも使いものにならない理由』(「週刊現代」93年6月5日号)という週刊誌報道も出て、「一軍入りは実力で決めるんじゃないのか」なんて荒れたり、「夜、ひとりになると野球をやる気がなくなる。嫌気がさしてきた。台湾に帰りたい」と1日おきに家族に国際電話を掛けたという。ホームシックにかかった息子を心配した父は、阪神担当スカウトに「なんとか一軍に上げてください」と異例の懇願電話。なお助っ人と言っても、待遇は日本の若手選手とほとんど変わらなかった。郭李は年俸1200万円とドラフト経由の新人選手と同じような条件で契約しており、異国の地の寮生活のため母国の婚約者を呼ぶわけにもいかない。24歳の若者には酷な環境だった。

 だが、故障のパチョレックに代わり、93年5月下旬に初の一軍昇格。先発だけではなく中継ぎでも起用され徐々に日本の水に慣れ出した7月下旬、背番号20はマウンド上で打球が股間を直撃する珍プレーにより登録抹消されるアクシデントに見舞われたが、パチョレックが途中退団した8月には戦列復帰し、1年目は27試合、5勝4敗2セーブ、防御率3.68というまずまずの成績を残す(チームは4位)。しかし、だ。日本人の新人選手なら上出来の数字でも、外国人選手として見ると物足りない。この問題はキャリアを通して、常に郭李を悩ますことになる。

気が付けばチーム投手陣最高給


仲の良かった中込伸(右)とのツーショット


 それでも、2年目以降は一軍外国人枠が3(投手もしくは野手を1人は含む)に拡大され、日本語も上達して同僚との付き合いも増えた。体格もソックリな中込伸と仲良く、マンションが近い弓長起浩の車に同乗して球場入り。そして、郭李は馬車馬のようにチームのために投げまくった。94年は49試合で7勝5敗2セーブ、防御率3.14。2完封を記録した95年は30試合5勝12敗、防御率3.37。阪神が2年連続最下位に沈んだ96年は、藤田平監督の「助っ人なんだから、最低2ケタは勝ってくれないとその価値はない。外国人の枠を使っているんだからね」という厳しい態度にも心折れず、45試合8勝9敗15セーブ、防御率3.62と6月からは守護神としてマウンドへ上がった。

 なお藤田監督は、後年『元・阪神』(矢崎良一編/廣済堂文庫)の中で当時の寮・虎風荘について、選手の寝床の段ボール箱に、カップラーメンやコンビニ弁当のゴミが散乱する光景に愕然としたと語っている。寮の食事の量は少なく、知り合いの栄養士に献立を見せたら「これは老人の摂る食事か、病院で食べる食事ですよ」なんて言われてしまう。さらに入ってくるルーキーは最初から故障で壊れている選手までいた。人材育成以前の問題だ。一軍ではグレン・デービス新庄剛志といった主力陣と監督の関係は悪化の一途。そんな暗黒期のチーム環境において、ギリギリでブルペンを支えたのはいつ何時も投げた郭李建夫だったのである。

 97年の年俸は6500万円。気が付けば、チーム投手陣最高給になっていた。すでに私生活では結婚して、子宝にも恵まれていたが、来日4年間で151試合に投げまくった勤続疲労から直球の球威が落ち、97年はわずか5試合、98年は故障による長期離脱もあり11試合の登板に終わる。もう外国人投手としての残留は難しかった。そして、6年間の日本生活にピリオドを落ち、29歳で阪神を退団すると、帰国して母国台湾のプロチームへ加入した。

 通算167試合で27勝31敗19セーブ、防御率3.50。確かに入団直後のフィーバーを考えると物足りない成績かもしれないが、大卒や社会人経由の選手と思えば十分な成績を残したと言えるのではないだろうか。いや、外国人枠が拡大した今ならば、郭李のような使い勝手のいいタフな助っ人投手はもっと評価され、重宝されていたことだろう。

 暗黒期の阪神を支えた台湾の銀腕エース。なお郭李が日本を去る際、別れを惜しんだ同僚選手たちが送別会を企画し、最後は盛大な乾杯で送り出されたという。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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