歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 長嶋の後を受けて監督に就任
巨人の監督に就任して、これほどまでにファンの反感をもって受け止められた指揮官もいなかったのではないか。1980年、巨人は3位に終わると、
長嶋茂雄監督は事実上の解任。選手として圧倒的な人気で巨人、そして戦後のプロ野球を引っ張り、監督としてもV9時代に低迷していた人気を復活させた功労者の“勇退”に、ナイン以上に動揺したのはファンだっただろう。ファンは親会社の読売新聞に対して不買運動を展開。78年のドラフトで
江川卓との契約をめぐって世間を敵に回した巨人だったが、それを上回る四面楚歌に陥ったといえるかもしれない。
このタイミングで新たに就任したのが
藤田元司監督だった。もちろん藤田が長嶋を解任に追い込んだわけではないのだが、ファンからはカミソリや汚物を送りつけられるなど、新監督は格好の標的となってしまう。若い読者のために補足しておくと、当時の野球名鑑などには当たり前のように選手や監督、コーチの住所が載っていた時代。最近ならカミソリのような誹謗や汚物のような中傷を簡単にSNSなどで送りつけられるが、かつては嫌がらせをするのにも骨が折れたことだろう。もちろん、そのすべてが容認されるべきものではないのだが。
さらに、巨人では
王貞治が現役を引退。ただ、そのまま王が助監督に就任することになり、これは引退して即、監督に就任して最下位に沈み、日本一には到達できないまま巨人を去ることになった長嶋の轍を踏ませない判断にも思われ、王も引退を発表した翌日から背番号1のまま多摩川の二軍グラウンドに藤田監督とともに現れて選手を指導。藤田監督、王助監督、そして
牧野茂ヘッドコーチによる“トロイカ体制”は巨人の新たな目玉となっていった。
追い風は続く。ドラフトでは4球団が競合した東海大の
原辰徳を獲得。長い時間をかけて進化していくべき過程が一気に押し寄せた激動のシーズンオフだったが、長嶋が去り、王がバットを置いた巨人の新時代は、着実にファンから受け入れられるようになっていった。
それを確固たるものにしたのは、巨人の強さだった。序盤こそ
中日の後塵を拝したものの、5月5日には首位に立ち、早くも独走態勢に。現役時代は背番号18を巨人のエースナンバーに昇華させた藤田監督は、江川、
西本聖、
定岡正二の先発三本柱を確立させ、これにベテランの
加藤初を加え、盤石のローテーションが完成。クローザーには
角三男を据え、投球こそ荒々しかったが、抜群の安定感を見せる。打線は三塁手の原を二塁で起用するなど腐心したが、三塁の
中畑清が故障で離脱、原が三塁へ回り、控えに追いやられていた
篠塚利夫が二塁へ入って好調を維持、中畑が復帰して一塁に定着したことで、強力な内野陣が成立した。
王に監督を禅譲も
日本シリーズでは同じく後楽園を本拠地とする日本ハムと戦い、4勝2敗で頂点へ
巨人は9月23日に4年ぶりのリーグ優勝を決める。江川は20勝、221奪三振、防御率2.29のすべてがリーグトップと圧巻の数字を残してMVP。18勝で続いた西本聖は沢村賞に。打線ではタイトルホルダーは不在だったが、原が新人王に輝いた。日本シリーズの相手は同じ後楽園球場を本拠地にする日本ハム。同一球場での日本シリーズは初めてのことだった。巨人は“敵地”で迎えた第6戦に勝利して4勝2敗で日本一に。V9以来8年ぶりの快挙だったが、後楽園の三塁ベンチから飛び出す巨人ナインというのも初めてのことで、もちろんナインの顔ぶれもV9時代とは大きく変わっていた。何もかもが新しい巨人。それを率いた藤田監督への毀誉褒貶は完全に跳ね返された。
藤田を長嶋の後を受ける監督に推したのは、監督としてV9を率いた
川上哲治だったという。「藤田は人のために死ねる男だから」というのは川上。83年にも巨人をリーグ優勝へ導いた藤田監督は、オフに王へ監督を禅譲。「最初から3年間のつもりでした」と、藤田は笑顔を見せた。だが、巨人は87年に4年ぶりリーグ優勝も日本一には届かず、88年は2位に終わると、またしても事実上の解任。その後任として白羽の矢を立てられたのは、またしても藤田だった。
文=犬企画マンホール 写真=BBM