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大谷翔平だけではない 「元祖二刀流」で大記録を達成した選手は

 

エンゼルス・大谷翔平


 投手と打者の「二刀流」で日本のみならず、メジャー・リーグでもその力が高く評価されているエンゼルス・大谷翔平だが、過去にも日本のプロ野球で「二刀流」として奮闘した選手たちがいる。景浦將、野口二郎西沢道夫関根潤三……先駆者たちの活躍を振り返ってみよう。


・景浦将
※投手 56試合登板、27勝9敗、防御率1.57
※打者 323試合出場、打率.271、25本塁打、222打点

 日本プロ野球史上に残る伝説の選手。阪神ではライバル・沢村栄治との対決が注目を浴び、「東の沢村、西の景浦」と言われた。松山商では2年まで剣道部に所属していたが、3年時に野球部の部員不足で駆り出されて入部。投げては剛速球、打っては長打を連発した。3年春夏に甲子園出場し、春は優勝、夏は準優勝に大きく貢献。立大に進学後、中退して大阪(現阪神)に入団すると、36年秋に最優秀防御率、最高勝率、1937年秋に首位打者、37年春、38年春に打点王を獲得と投打でタイトルを次々に獲得した。投手としてはナチュラルシュートする球質の重い直球を武器に、打球が外野に飛ぶことがほとんどなかった。打っては上半身が引きちぎれるほどのフルスイングから繰り出される弾丸ライナーで飛距離は球界屈指だったという。太平洋戦争で徴兵され、1945年にフィリピンで戦死。29歳の若さだった。

阪急・野口二郎


・野口二郎
※投手 517試合登板、237勝139敗、防御率1.96
※打者 1098試合出場、打率.248、9本塁打、368打点

「鉄腕」の異名を取り、通算237勝をマークした。東京セネタースに入団1年目の1939年に33勝をマークすると、2年目に防御率0.93、3年目に防御率0.88でタイトルを獲得。4年目の42年はさらにすごい成績を残した。シーズン日本記録の19完封で40勝と最多賞を獲得。5月23日に完投勝利したあと、翌24日の名古屋戦にも先発し、当時世界最長の延長28回を343球完投するなど同シーズンの投球回数は驚異の527回1/3に達した。投手としてだけでなく、打者でも通算830安打をマーク、規定投球回数と規定打席の両方を満たしたシーズンが6回あり、阪急時代の1946年に31試合連続安打と当時の日本プロ野球記録をマークした。

中日・西沢道夫


・西沢道夫
※投手 231試合登板、60勝65敗、防御率2.23
※打者 1704試合出場、打率.286、212本塁打、940打点

 大谷のように投手と打者の同時進行ではないが、投手で20勝、打者で40本塁打を記録したプロ野球史上唯一の選手。身長182センチから投げ下ろす快速球を武器に1940年に20勝9敗、防御率1.92をマーク。42年5月24日の大洋戦では相手先発の野口二郎と投げ合い、世界最長となる延長28回を311球で完投した。その後は右肩を痛めて、打者に転向。50年に46本塁打をマークすると、52年に打率.353、20本塁打、98打点で首位打者と打点王の二冠に。極端に細いグリップから華麗な打撃フォームで強打者として人気を呼び、「初代ミスタードラゴンズ」と形容された。

近鉄・関根潤三


・関根潤三
※投手 244試合登板、65勝94敗、防御率3.42
※打者 1417試合出場、打率.279、59本塁打、424打点

 投手で50勝、打者で1000安打を記録したのはプロ野球の歴史で西沢と2人のみ。球宴のファン投票で初の投手、野手の両方で選出された。入団した当時の近鉄は万年最下位と低迷していたが、1954年に自己最多の16勝、防御率2.44の好成績を残した。その後は左肩痛のため、8年間で投手に見切りをつけ、打者に転向。62年に自己最多の打率.310、翌63年に打率.296、12本塁打をマークするなど中心打者として活躍した。65年に巨人に移籍し、プロ16年目の38歳で初のリーグ優勝を経験した。

写真=Getty Images、BBM
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