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プロ野球20世紀・不屈の物語

完全試合よりも難しい? プロ野球で初めて全12球団に勝った野村収【1983年】/プロ野球20世紀・不屈の物語

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

2リーグ制34年目にして


阪神時代の野村


 1リーグ時代から2リーグ分立を経て西鉄(現在の西武)ほかで活躍、15球団から白星を挙げながらも“全球団からの勝利”にならなかった緒方俊明については紹介した。球団の増減も激しかった激動期。1年だけ在籍した西日本が西鉄と合併して消滅したことで、“全球団”にはならなかったのだ。21世紀には交流戦のためグンとハードルが下がった印象もあるが、20世紀の2リーグ制では、全球団から勝ち星を挙げるには、実力もさることながら、独特の運も必要だった。

 まず、少なくとも3度の移籍が必要で、両リーグそれぞれで2チームずつに在籍しなければならない。このとき、うっかり(?)古巣へ復帰してしまうと、達成は遠のいてしまう。もう1度、どこか在籍したことのないチームへ移籍しなければならず、それも同じリーグで4チームの在籍になってしまうと、もう一方のリーグでは1チームのみの在籍となってしまい、さらに達成は遠くなってしまうのだ。もちろん、ただ在籍しただけでは不可能。一軍で登板し、古巣に勝利する実力も兼ね備えていなければならない。

 球界の雰囲気も近年と異なる。移籍は環境が変わることでもあり、それによって多かれ少なかれ役割が変わり、投球にも影響が出かねないのは同じだが、かつての移籍には“お払い箱”のような印象もあり、新天地では“外様”のような扱いになることも少なくなかった。数値化できるようなものではないが、新天地でも第一線を維持することは、近年よりも難しかったといえるだろう。さらに、第一線の最先端を走るほど活躍してしまっても、トレードの交換要員として白羽の矢を立てられる可能性も低くなるから、投手タイトルの常連、まさにエースという活躍をしても達成は難しくなる。そして、そもそも、FAもなかった時代、このチームから移籍しようと思ってプレーしているわけではない。全球団から勝つということは、それだけ何重ものハードルがあったのだ。

 ちなみに、投手にとって至高の快挙ともいえる完全試合を達成したのはプロ野球で15人。このすべてが2リーグ制となってからで、20世紀のものだが、これが“全球団から勝利”となると、20世紀には2人しかいない。また、これも重複になるが、完全試合は2リーグ制となって1年目、プロ野球が始まってから14年目(戦争による休止を除く)に達成された一方で、全球団から勝った投手が登場したのは2リーグ制となって34年目のこと。その第1号は1983年、プロ15年目を迎えた右腕の野村収だった。

第2号も紙一重


阪神時代のピッチング


 野村はドラフト1位で69年に大洋へ。だが、3年目のオフにトレードでロッテへ。移籍1年目の72年に初の2ケタ14勝を挙げた。だが、わずか2年で日本ハムへ。移籍2年目の75年から2年連続2ケタ勝利。これでパ・リーグ6球団を制覇した。ただ、次に移籍したのは古巣の大洋。移籍1年目の78年に17勝で最多勝に輝くなど活躍してしまった(?)。

 80年にも15勝を挙げたが、その後は失速。加藤博一を紹介した際にも触れたが、加藤とのトレードで83年に大洋から阪神へ移籍した。低迷する2人のトレードは注目を集めたとはいえなかったが、またしても野村は移籍で息を吹き返す。自身6度目の2ケタ勝利となる12勝。5月15日の大洋戦(甲子園)で古巣に勝利したことで、1度の移籍で達成の可能性が出てくる1リーグ時代は別として、プロ野球で初めて“全球団から勝利”を挙げた投手となり、「チームが勝ってくれればいい」と語りながらも、さすがに「第1号というのは気持ちがいい」と笑顔を見せた。

 この時点で通算107勝119敗。それまで優勝とは無縁だったが、85年に初めて優勝を経験し、西武との日本シリーズにも2試合に登板している。その後は86年までプレーを続けて、通算121勝132敗で引退。ちなみに、第2号は同じく右腕の古賀正明で、太平洋、クラウン(現在の西武)からロッテ、巨人を経て、野村に快挙を献上した大洋で達成した。しかも同じ83年のこと。4カ月あまりの差こそあれ、長い歴史を考えれば紙一重の差だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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