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プロ野球20世紀・不屈の物語

県営宮城球場、ロッテとの“破局”【1950〜92年】/プロ野球20世紀・不屈の物語

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

転機は73年



 21世紀に入って誕生した楽天が本拠地として“定住”、現在は楽天生命パーク宮城となっているが、20世紀、特に昭和の時代を知る古いプロ野球ファンには、県営宮城球場という名称にも愛着があることだろう。シーズン97敗という1年目、東日本大震災からの復興を誓った7年目、寒い雨の中で日本一を決めた9年目と、楽天とともに歩んだ不屈の物語も実にドラマチックだった。ただ、このドラマは始まったばかりの現在進行形。さらなるエポックが今後も待ち受けていることだろう。

 一方、それまでの歴史は、この新たな物語に比べて、あまりにも長く、かつての名称のように、なんとも地味だ。20世紀にプロ球団が正式に本拠地としたのは4年間のみ。正式に、というのが肝だ。プロ野球の聖地ともいわれる後楽園球場が20世紀のプロ野球における主役だとすれば、県営宮城球場は助演男優賞クラスの名脇役。いや、どちらかといえば助演女優賞になるだろうか。杜の都にたたずみながら、プロ野球の歴史に唐突に顔を出しては、独特の味わいを醸し出してきた。県営宮城球場という響きに郷愁を覚えるオールドファンもいるかもしれないが、それはおそらく、この漢字だらけの名称のためだけではないはずだ。

 2リーグ制が始まったばかりの1950年5月に開場。ちなみに、宮城県で最初の公式戦は県営宮城球場ではなく、評定河原公園で1リーグ時代に4試合、2リーグ制となってからは1試合が開催されていて、その唯一の試合となった50年4月11日に国鉄と中日の試合は両チーム計7本塁打の乱打戦となっている。

 一方の県営宮城球場は以降も50年代は毎年、公式戦が開催された。プロ野球の試合は多くの観衆を集めたものの、県内におけるアマチュア野球の聖地をプロ野球が拝借しているような印象もあった。転機は73年だ。この連載でも触れてきたが、東京スタジアムの閉鎖で本拠地を失ったロッテが準本拠地に。これを機に、照明塔6基と一部が電光式のスコアボードが完成する。太平洋との“遺恨試合”の舞台にもなった一方、10月10日の太平洋戦ダブルヘッダー第1試合で八木沢荘六がプロ野球13人目の完全試合を達成。そしてロッテは翌74年に正式な本拠地とすると、黄金時代の阪急とのプレーオフを制して、いきなりリーグ優勝。金田正一監督は宮城の空に舞った。だが、迎えた中日との日本シリーズ。頂点へと突き進むロッテは地元ファンの怒りを買うことになる。

まさに石もて追われるように?


1974年の県営宮城球場


 この73、74年は、フォークソング『神田川』が流行していた時期。地元ファンから大いに歓迎されたロッテも三畳一間の下宿に“仮住まい”しているような感覚だったのだろうか。かの名曲には別離の場面は描かれていないが、ロッテと県営宮城球場は、修羅場ともいえそうな破局を迎える。74年のペナントレースでは、不人気のパ・リーグとしては別格の平均1万7222人を集めたロッテ。だが、日本シリーズでは後楽園を本拠地にして日本一に。この後味の悪い快挙に地元ファンの愛情は急激に冷めた(?)。翌75年は観客動員数は激減、平均1万人を下回った。

 77年に3年ぶりプレーオフ進出を果たしたロッテだったが、球団は本拠地の移転を模索、川崎球場への移転がプレーオフを前にファンへと伝わって、しかもロッテは県営宮城でのプレーオフ第5戦で阪急から1点も奪えず完敗。金田監督はファンから石を投げつけられた。もちろん容認されるべき行為ではないが、一方的に別れを告げて愛の巣を出ていったようなロッテは、まさに石もて追われるように川崎へと去っていったのだ。

 ただ、すでに仙台空港では定期便の運行も始まっていたが、まだ東北新幹線は開通していなかった時代。交通インフラの面でロッテにビハインドとなっていたのも事実。だが、川崎へ移転して移動が楽になったはずのロッテがリーグ優勝から遠ざかったのは、なんとも皮肉だ。一方、県営宮城球場では、78年に阪急の今井雄太郎がロッテを相手に完全試合を達成。東北地方で初の球宴が開催された92年は、ロッテが千葉で新たなスタートを切ったシーズンでもあった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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