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元駒大野球部監督、太田誠氏が語る「1964東京五輪招致」に尽力した男、フレッド・イサム・ワダ

 

名刺に刷られた美しいコラム


東京オリンピック開催祈念号表紙


 7月29日、小社から「東京オリンピック開催祈念号」を発売した。
 リスケジュールされた1年後の開催も危ぶまれる中ではあるが、東京オリンピックに向けたアスリートたちの想い、代表選考の現在地、さらに前回の日本夏開催、1964年東京大会の記憶などを1冊にまとめたものだ。

 限られたページ数ながら、載せたい企画があまりに多く、泣く泣く、あきらめたものも多い。
 その一つがフレッド・イサム・ワダさんの話だ。

 ワダさんについては、以前、「ベースボールマガジン」で掲載したことがある。
 31年間の駒大野球部監督生活で駒大黄金期を築いた名将、太田誠氏へのインタビューから構成したものだった。
 以下は、その記事の再録である。

 秋の抜けるような青空に航空自衛隊の「ブルーインパルス」が五輪のマークを描いた。歴史的光景を太田は国立競技場からほど近い東京・恵比寿で目に焼きつけた。
 太田は当時、電々公社(現NTT東日本)の管理職宿舎に住んでいた。
 浜松西高から駒大を経て1959年に電々公社に入社。主軸として64年の都市対抗野球に出場。その年10月10日、日本で初のオリンピックが華々しく幕を開けた。公開競技として行われた野球の社会人選抜には「期待したけど、選ばれなかった」。

「でも、神宮外苑の周辺のにぎやかさと言ったらなかった。そこに田舎の浜松から親父が友だちを連れて上京してくるんだ。『オリンピックなんかチケットがないと入れねえぞ』と親父に言うと、『外国人を見にきただけだ』と。神宮外苑へ連れていって、そのへんを歩いている外国人を見ていればオリンピックに行ったような気になるんだよ。それで田舎に帰ってから『俺はオリンピックに行ってきた』と報告してるんだからな。まあ、そういう時代だった」

 太田が「この人がいなかったらオリンピックはなかった」と力説する人物こそ、日系アメリカ人の実業家、フレッド・イサム・ワダである。
 1907年8月18日にワシントン州で生まれた。スポーツ界との関わりは、敗戦から4年後の49年にロサンゼルスで開催された全米選手権だった。
 日本の水泳選手、古橋廣之進らが渡米した際に、宿舎として自宅を提供したのがワダだった。当時は、日本人が旧敵国としてアメリカ国内でツバを吐きかけられるなどの人種差別を受けていた。
 そんな時代にワダは、日本の競泳陣に対して食事面など支援を惜しまなかった。その結果、古橋は世界新記録を樹立した。現地の新聞で「フジヤマのトビウオ」と称されるほど、アメリカ人の日本人への見方を変えてみせた。

 58年には東京オリンピック招致に向けた準備委員会が組織された。水泳界との親交が生まれたワダも、IOC(国際オリンピック委員会)総会に向けたロビイ活動の一環として中南米を歴訪。各国のIOC委員に東京五輪招致への協力を要請した。
 そのかいあって59年のIOC総会で投票の結果、欧米の3都市を破って64年の東京招致を決めたのだ。

 太田がワダとの知己を得たのは75年だった。その年、駒大を日本一へと導いた太田は全日本の監督として日米大学選手権のためアメリカに遠征。ロサンゼルスのワダ邸で歓待を受けた。2年後に再びワダの自宅を訪れると、そこにはヤンキースの名将として知られたケーシー・ステンゲル監督も車イスに乗って顔を見せていた。アメリカにおけるワダの人脈を、太田は見せつけられた。

 ワダは、のちに84年のロサンゼルス五輪で組織委員の一人となるが、二枚折りの名刺の裏には、東京五輪を取材したジム・マレーという記者のコラムが印刷されていた。

「Simple Goodbye」と題されたコラムには、同記者が日本で触れた人々との心温まるエピソードが次のように記されていた。

『サヨナラ』電光版の文字が、闇の中にくっきりと浮かぶ。(中略)
 日本人にとって国を挙げての大事業は終わり、メダルは渡され、旗は降ろされ、そして聖火も消され、スポーツの祭典は終わったのだ。
 しかし、これですべてが終わってしまったのではない。彼らは思い出を故国に持ち帰ったのだ。
 メダルは誰もが獲れるものではない。しかし、笑顔や温かい親切や、良心によってもメダルは獲ることができるのだ。
 東京で取材に歩いていたある雨の日、軒先で雨宿りをして困っていた私に、一人の少年がはっきりとした英語で「どうぞ」と傘をさしかけてきた。そして私の目的地まで傘をさしてついてきてくれた。しかも思いがけないことに1時間もして用事を済ませて出てきた私を、その少年は笑顔で雨の中を待っていてくれたのだ。
 自分の雨降りコートを脱いで貸してくれた若い一人の男。道に迷った私たちのために300メートルもついてきて道を教えてくれたエレベーターボーイ。タクシーの運転手は決してチップを受け取ろうとしない。
 また、ある日私たちはエレベーターの中で議論を始め、そのまま1時間もエレベーターの中で話し合ってしまった。そんなとき、エレベーターガールは静かに戸を開けたまま私たちを待っていてくれた。(中略)
 こんな人たちに私は金メダルを贈りたいのだ。

 今度の東京オリンピックでの一つの特徴は、どこの会場でも、スタンドのてっぺんの20列くらいは、おとなしくかしこまった小中学生の少年たちによって占められていたことだ。このような光景は、他の国のスタンドでは絶対に見られない。
 今度もし、アメリカでオリンピックが開かれるときがあれば、そのときには、ミンクのコートを着た人たちよりも、少年たちをスタンドに招待したい。

 さようなら、美しい、親切な日本の国。私は日本の国全体に金メダルを贈りたい。


 1964年の日本人のメンタリティーが描かれた文章を自らの名刺に刻み、ワダは2001年にこの世を去るまで日本を応援し続けた。
「それほどワダさんという人は日本魂、大和魂を持った人だった」
 東京五輪招致に尽力した男への賛辞を、太田は惜しまない。(文中敬称略)
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