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プロ野球20世紀・不屈の物語

今日は“つなぎユニフォーム”のデビュー記念日(?)。松本匡史の“涙汗”とセ・リーグ新記録76盗塁/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜83年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

手術、退院、そして“地獄”



 1983年の76盗塁はセ・リーグ記録として残る。この2020年はともかく、シーズン盗塁が激減している21世紀。もしかすると不滅の数字になるのかもしれない。それ以上に、当時を知るファンなら、その応援歌を強く記憶に残しているのではないだろうか。そこでも歌われたのが代名詞の“青い稲妻”。絶妙なネーミングといってしまうと手前味噌になってしまいそうだが、当時の『週刊ベースボール』が命名したもの。定着したのは、その応援歌の完成度が高かったことにもよるだろう。水色の手袋とともに80年代の塁間を駆け回ったのが、巨人の松本匡史だ。

 中学で本格的に野球を始め、3年間は捕手だったという。報徳学園高2年生のとき、春夏連続で甲子園に出場。このとき、巨人のテストを受けようとしたという。古くは高校を中退して入団する選手は少なくなかったが、ドラフトも定着していた70年代のこと、さすがに断られている。結局、早大へ進学。故障との闘いが始まった。4年間で左肩を脱臼すること7度を数える。それでも、6シーズンで57盗塁。巨人の先輩となる高田繁が明大で7シーズンかけて記録した48盗塁を大幅に上回った。

 76年に日本生命への入社が決まったが、その秋、巨人がドラフト5位で指名。かつては入団テストを受けようとしていた男が、このときは何度も断った。だが、長嶋茂雄監督が直々に説得。これで入団を決めて、二塁や三塁の控え、代走をメーンとしながらも、1年目の77年から2年連続2ケタ盗塁を決めた。

 ただ、なかなか肩の脱臼グセが治らず。3年目の79年シーズンを棒に振って、5月に手術、9月に退院した。その11月に始まったのが、伝説として語り継がれる“地獄の伊東キャンプ”。松本もメンバーに抜擢され、打っては右打ちから両打ち、守っては内野から外野への転向が指示される。退院して間もない松本が突き付けられたのは、誰よりも過酷な課題だった。攻守ともにミスを連発。思わず涙が流れ、それを長嶋監督は“涙汗”と呼んだ。そして、それは結果を呼んだ。

高橋との熾烈なレース


盗塁をうかがう松本


 順調といえば順調だったのかもしれない。一方で、時として皮肉な運命も顔をのぞかせる。迎えた80年に21盗塁も、オフに長嶋監督が退任。翌81年に初めて出場100試合を超え、そして初めて盗塁王を争った。このときはヤクルト青木実にタイトルを譲ったが、わずか1盗塁の差だったことで、ますます盗塁に磨きをかけるようになる。続く82年には9月に頭部死球で3週間の離脱があったものの、スイッチヒッター、そして盗塁王の先輩でもある広島高橋慶彦に大差をつける61盗塁で盗塁王に輝いた。これが高橋の闘志に火をつけたのか、その翌83年、2人のタイトル争いは熾烈となる。

 開幕から飛ばしたのが高橋。4月までで12盗塁と、4盗塁の松本に大きく差をつける。だが、松本は5月に20盗塁、6月には21盗塁で逆転。その後は両者ともにペースダウンも、先頭を走る松本を追う高橋という構図が続いた。このとき松本は並行して、上下つなぎの特注ユニフォームの作成を依頼している。牽制されてヘッドスライディングで帰塁するとき、ユニフォームの中に大量の砂が入ることを嫌ったためだ。

 これを初めて試したのが37年前の今日、7月30日の阪神戦(甲子園)だった。そして、「砂も入らず、すごく助かりました」(松本)と、セ・リーグ記録を33年ぶりに更新して2年連続の盗塁王。プロ7年目でセ・リーグを代表するスピードスターとして大成した。以降も2ケタ盗塁を続けたが、これが最後の盗塁王となってしまう。運命の皮肉は、その後も続いた。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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