歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 イチロー、本西、山森、福本……
守備のパフォーマンスにおいて、外野手は内野手に比べて分が悪いのかもしれない。ファンを沸かせることを強く意識した守備で鳴らした野手は、
巨人の
長嶋茂雄を筆頭に、内野手が多い。パフォーマンスを優先してしまうと、エラーのリスクも高まっていく。内野手のエラーよりも、外野手のエラーのほうが走者を進めてしまう危険性もある。ちょっとしたパフォーマンスはおろか、ファンが思わず腰を上げるようなトリックプレーを試合で敢行するハードルは高い。
一方、試合の合間などに、オリックスのイチローが背中に回したグラブで捕球する、いわゆる背面キャッチでファンを盛り上げたのは1990年代のこと。もともと守備のパフォーマンスに対する意識は高く、「正面で捕るのは大変なんですけど、ファンからはイージーに見える。それよりは、ちょっとバランスを崩してヒザ元で捕るようなプレーのほうが絶対うまく見えます」と言っていたこともあった。だが、そんなことを試合でやろうものなら、外野陣の“ボス”
本西厚博が「小僧、試合で遊んでんじゃねぇ」とばかりにギロリ。本西はオリックスの前身、やはり鉄壁の外野陣を誇った阪急で鍛えられた男。阪急では70年代から中堅の
福本豊がダイヤモンド・グラブ賞(現在のゴールデン・グラブ賞)の常連で、78年には外野はおろか、一塁を除く8ポジションを阪急の選手が占めたほどの堅守のチームでもあった。
その福本に鍛えられ、後継者になったのが本西。そんな職人にとって、ファンを喜ばせようとしたこととはいえ、若きイチローのパフォーマンスが浅薄に見えたのは当然のことなのかもしれない。阪急には、81年にフェンスを駆け上がって本塁打になるはずの打球を好捕、86年に野球の本場でもあるアメリカの殿堂にも入った
山森雅文もいた。難しい打球をさばくビッグプレーこそ最大のパフォーマンス、これが外野手の本分。そんな本西の声が聞こえてきそうだ。
イチローの守備も次第に堅実さを優先するようになり、そのパフォーマンスはファンにとっては練習での楽しみに限られ、背面キャッチなどのトリックプレーを試合で見ることはできなかった。この姿勢は正しい。ただ、正し過ぎるが故に、思慮の浅い少年に戻って言えば、それを試合で見たかったようにも思う。だが、プロ野球の長い歴史で、試合でトリックプレーを敢行した外野手は誰ひとり……いや、いる。それも、草創期の阪急に。
恐怖の“股間キャッチ”(?)も
イチローと同様、練習中の背面キャッチで沸かせていたのは
山田伝だ。和歌山に生まれ、少年時代にアメリカへ移住、カリフォルニア州の日系人を中心としたチームの一員として来日したときに阪急からスカウトされ、1937年の秋に入団。用具も粗悪で、大空に弧を描く本塁打などなく、サーカスのような守備にファンが沸いていた時代だ。練習中には、背面キャッチどころか、股の間からグラブを出して捕ることもあったという(こ、こわい……)。
そんなパフォーマンスを繰り返しているうちに思いついたのが、両手を合わせてヘソの前で捕球すること。山田は“バスケット・キャッチ”と呼んでいたが、この当時、こうした長いカタカナが人口に膾炙するのは難しかったのか、ファンには“ヘソ・キャッチ”として定着、山田も“ヘソ伝”と呼ばれるようになった。
山田は試合でも“ヘソ・キャッチ”を敢行、これが阪急の名物になっていく。もちろん、本西のように山田をにらみつけた存在もいた。慶大のスターで、阪急が最初に契約して主将を任された背番号1の
宮武三郎だ。ただ、本西のような“親心”的な雰囲気のものではなく、ヘソの前で捕っているようにごまかしているのではないかと疑い、球団の職員に外野で観察させた。答えは「間違いなくヘソで捕っています」。山田のトリックプレーを本物だと証明することになった。
山田は戦局が悪化しても残留し、日本国籍を取得。盗塁王2度、阪急ひと筋を貫いて48年までプレーを続けた。投手としても8試合に登板し、左投げながら6試合で二塁を守ったこともある。
文=犬企画マンホール 写真=BBM