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プロ野球20世紀・不屈の物語

阪神とロッテの原点、“七色の変化球”の先駆者、そして契約金を要求した第1号。若林忠志の先見性/プロ野球20世紀・不屈の物語【1936〜65年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

前例のない契約金1万円



「高校野球で昔の朝日新聞、毎日新聞の大会から、ああいう具合に連投させるのが常識になっている。これは非常によくない。アメリカのリトルリーグなんか絶対に連投させないからね。日本でも、そういう道を選んだほうがいい。(そうでなければ)若くして、これからよくなるというヤツが、みんなダメになる」

 これはベースボールマガジン誌上の対談から抜粋して再録したものだ。ただ、近年のものではない。1964年11月号。半世紀を超える時間を経ても色あせていない発言どころか、56年も前のことだと考えれば、未来の予言にすら見えてくる。

 21世紀に生まれた若い読者はおろか、プロ野球テレビ中継の黄金時代を過ごした読者であっても、若林忠志の名を知っていたら、なかなかの通といえるかもしれない。64年のベースボールマガジンでは、巨人でプレーし近鉄では監督も務めた千葉茂を聞き手に「名選手芸談」なる対談が連載されており、このときのタイトルは「七色の変化球」。この表現も半世紀を過ぎた21世紀も健在なのだが、冒頭の発言は、その表現が初めて用いられたと思われる多彩な変化球を操った若林のもの。プロ野球の創設に参加し、現在につながる阪神、そしてロッテの原点となる毎日で、45歳までプレーを続けた男だ。ちなみに、60年代については、中日権藤博が“権藤、権藤、雨、権藤”と評される連投を繰り広げ、西鉄の稲尾和久が78試合に登板して42勝を挙げたことを、この連載でも紹介している。そんな時代だ。

 ハワイ出身。両親は広島から移住し、パイナップル畑を経営していた。ニックネームは“ボゾー”。最初は捕手だったが、ハワイNo.1投手として高校生ながら日系ノンプロ球団のハワイ朝日でプレーするようになり、28年にスタクトン市のチームが親善のために行った日本への遠征に「一度、自分の祖国を見てみたい」と参加すると、快速球とナックルで圧巻の投球を見せる。このとき勧誘したのが法大だった。

 だが、早大、慶大を中心に東京六大学の他校が猛反対。若林は本牧中に転入して卒業証書を手に堂々と法大へ入学した。法大では入学を妨害した早慶を相手に何度もリベンジ。33年には学生結婚もして、法大を卒業すると、日本コロムビアを経てタイガース(阪神)へ。ただ、最初に誘ったのは巨人で、月給150円を提示してきたが、これを拒否。そこから勧誘に来た阪急とタイガースに、前例のない契約金を要求する。その額は1万円。これをタイガースが承諾、若林は現在に連なる阪神の創設メンバーとなる。

小さな風呂敷ひとつで復帰


 法大での酷使が影響してヒジや肩の調子が上がらず、速球派から技巧派に転じた若林は、4種の変化球に緩急と微妙な変化を加えて、“七色”どころか、無数の変化球があるように打者を幻惑していく。結実したのが4年目の39年。防御率1.09で最優秀防御率に輝き、以降プロ野球が戦争で中断する44年まで6年連続2ケタ勝利、42年からは監督も兼任して、優勝に導いた44年には22勝、防御率1.56で最多勝、最優秀防御率の投手2冠、MVPに輝いた。

 45年は宮城県で疎開していた家族の下へ。戦後は石巻石和クラブでプレーしながら、英語力を生かして進駐軍の仕事で成功を収めた。だが、付き合いのあった大学生に「タイガースが選手不足に苦しんでいる」と聞かされ、46年9月、夫人に「ちょっと東京に行ってくるよ」と言って、小さな風呂敷ひとつで外出する。夫人は仕事だと思ったという。だが、風呂敷の中身はグローブとスパイク。仕事に向かったのは間違いないが、仕事先は進駐軍ではなく、阪神だった。

 ふたたび監督を兼任することになった若林は、リーグ最多の10完封を含む26勝を挙げて優勝の立役者に。2リーグ制となると新設された毎日(現在のロッテ)へ移籍して、第1回となる日本シリーズ(当時は日本ワールド・シリーズ)の第1戦に完投勝利。このとき、すでに42歳となっていた。53年に引退。64年には殿堂入りも果たした。だが、冒頭の発言があった約4カ月後に死去。57歳だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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