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プロ野球20世紀・不屈の物語

“江川vs.掛布”の源流。“海内無双の名勝負”を演じた景浦将という猛虎/プロ野球20世紀・不屈の物語【1936〜39年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

プロ野球の原点



 いま、プロ野球20世紀の名勝負、中でも個と個の対決で至高のものを選ぶとしたら、もっとも票を獲得しそうなのは、江川卓掛布雅之のライバル対決ではないだろうか。ひたすらストレートを投げ込み続けた巨人のエースと、それにフルスイングで応じた阪神の四番打者。地上波テレビ中継の黄金期でもあり、長いプロ野球の歴史にあっても、もっともリアルタイムで見た人の多い対決でもあるだろう。

 しかも、舞台は巨人と阪神の“伝統の一戦”。ともに名門チームのエースと四番打者の誇りを懸けた真っ向勝負は、プロ野球ファンに限らず、たまたまついていたテレビで見たような人の心をも熱くするものだった。この当時は、そんな江川と掛布の姿を見て、草創期の巨人と阪神に思いを馳せたプロ野球ファンの最古参も、少ないながらいたことだろう。

 巨人と阪神、そのエースと主砲の名勝負は、プロ野球“元年”にさかのぼる。巨人のエースは沢村栄治。沢村賞に名を残していることもあり、もっとも語り継がれている草創期の選手だ。一方の阪神、当時のチーム名はシンプルにタイガースのみ。いまも最速との呼び声も高い沢村の快速球に、重さ約1100グラム、長さ92センチのバットで立ち向かい、フルスイングで弾丸ライナーを打ち返したのが景浦将だった。

 景浦の白眉は、打者としてだけでなく、投手としても沢村と対決したことだ。球種はストレートのみ。ほとんど投球練習はせず、沢村のように美しいフォームでもなかったが、バットを折りまくる重い剛速球を絶妙に制球した。プロでは同期だが、景浦が1学年の上。沢村が「景浦さんだけには絶対に負けたくない」と言ったように、年下の沢村が挑戦者という構図だったかもしれない。

 景浦は立大を中退してタイガースの結成に参加。プロ野球“元年”の1936年は、春のリーグ戦は巨人がアメリカ遠征のため不在。巨人も含む全7球団が3球場でのトーナメント戦を行った夏は“球場難”のため王座決定戦は中止されたが、秋は4球場でリーグ戦、2球場でトーナメント戦が行われ、巨人とタイガースが勝ち点2.5で並び、王座を争うことになる。

豪快なルーティン


 舞台は、満潮になると海水で水びたしになる伝説の洲崎球場。12月9日からの3日間での3連戦だった。沢村が三振を奪えば、景浦は沢村のドロップを場外へ運ぶ。第1戦は5対3で巨人、第2戦は同じ5対3でタイガース、そして第3戦は3連投の沢村による好リリーフもあって4対2で巨人が制して、巨人が優勝。何よりも、当時はプロ野球が大学野球に比べて圧倒的に格下だと思われていた時代だ。「職業野球は面白い。神宮の野球(大学野球)にはない味がある」と評され、王座決定戦にふさわしい対決にファンは酔った。この名勝負がなければ、プロ野球は挫折していたかもしれない。そうなれば、我々が江川と掛布の名勝負を見られることもなかったのだ。

 試合の前に、お神酒を口に含み、バットに吹きかけ、祈る。これが景浦のルーティンだった。いつもやっていたわけではない。これが見られたときは、景浦にとって大事な試合という証だった。36年の秋は投手として無傷の6連勝、防御率0.79で最優秀防御率。翌37年からは春季と秋季の2シーズン制となり、春は2年連続で打点王、その間に挟まる37年の秋には首位打者に輝いた。

 だが、掛布、田淵幸一村山実、そして藤村富美男と、阪神で“ミスター・タイガース”と呼ばれた男たちは不遇のラストシーンを迎えているが、この“伝統”は景浦から始まっている。森監督が解任されたことに憤り、後任の石本秀一監督と対立。給料トラブルが追い打ちをかけ、「ゴチャゴチャ考えながら野球をやるのは嫌だ」と39年に引退。兵役では手りゅう弾を投げまくり、肩を壊した。心も壊されたのかもしれない。43年に復帰したが、かつての闘志は失われていた。そして、ふたたび応召。フィリピン戦線で、食糧調達の担当者がマラリアに苦しんでいるのを見て、代わりに出かけて、そのまま帰ってこなかったという。餓死とも伝えられる。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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