歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 「どうなったところで、兵隊までじゃ」
いまは東京から熊本までは新幹線で、大阪からなら乗り換えずに行くことができる。飛行機が苦手という向きには、九州新幹線の開通までは寝台特急で東京と往復していたという人も多かったことだろう。ほとんどの人が、自分が飛行機を苦手としているかどうかも分からなかった戦前も、夜行列車は走っていた。1938年のプロ野球ペナントレース開幕に向けて、2人の若者が熊本から東京へ向かう夜行列車に乗り込んで、こう語り合ったという。希望あふれる旅路とは、少し違う。「どうなったところで、兵隊までじゃ」。日米開戦の、およそ4年前のことだ。
この2人のうち1人は
川上哲治。巨人で“打撃の神様”と呼ばれた好打者だが、このときは投手。貴重な左腕ではあるものの、いかんせん球威に欠ける。もう1人は、川上と熊本工でバッテリーを組んでいた捕手の吉原正喜だった。ともに熊本工での最後の夏に甲子園で準優勝、神宮で行われた大会では優勝。このときの闘志あふれるプレーもあり、巨人が吉原と契約した。のちの“神様”も、この吉原の“ついで”。3捕手を兵役に取られた巨人には捕手の獲得が急務でもあった。
勝って泣き、負けて悔し泣き。闘志に加え、元気も感受性もあふれかえった若者だった。ただ、そんな吉原にさえ、前述した言葉のような諦念が漂っていた。同様の逸話は他の多くの選手たちにも残る。すでに時代は暗闇の中にあった。
こうした達観のようなものがあったからでもあるのだろうか。弱冠19歳の若者は、錚々たる先輩たちの中でも遠慮することなく元気ハツラツだった。捕手ながら足も自慢だった吉原は、入団して早々に、その足に注目した藤本定義監督に言われて、同じく足が自慢の先輩たちと50メートル走(100メートルとも)で対決、3位に終わると、「もう一度やらせてください!」。次は2位につけたが、またも「もう一度やらせてください!」。ちなみに1位は“人間機関車”
呉波だったが、その呉との一騎打ちに持ち込んで、あらためて1位に。周囲が驚いたのは足の速さではなく、その負けず嫌い。こんな男だから、すぐにチームにも溶け込んだ。川上も「僕が自分から話しかけられないような先輩に、彼だけは以前から知っているような口調でしゃべっていた」と振り返っている。声も大きかったという。
ただ、プロの速球には苦しみ、特に
スタルヒンの剛球には何度も左手を腫らした。腫れが収まる前に、ふたたび腫れることの繰り返し。これは吉原が負けず嫌いだったからでもあるが、これで捕球の技術を磨いた吉原は、捕手としてもチームメートの信頼を集めていった。
「今年から捕手をやらせてもらいます」
肩だけでなくリストも強靭で、送球も正確だった。試合になると目の色が変わり、ファウルを追ってコンクリートに頭から激突したこともあった。川上は振り返る。「もんどりうって倒れたが、すぐ『捕ったぞ!』と叫んでいる。彼の頭を見ると、血がにじんで白い肉のようなものが見えている。彼は元気にプレーを続けたが、コンクリートの屋根を見てビックリした。血のついた頭皮と髪の毛がへばりついているんだ」。
まさに豪傑といえる逸話だが、武骨なだけではない。英語が禁止されて迎えた41年の開幕を前にした激励会で、「昨年までキャッチャーをやっていた吉原正喜です。今年から捕手をやらせてもらいます」と挨拶するなど、ウィットに富んだ……いや、才気煥発な面も見せた。ただ、場内は爆笑に包まれたが、すぐに静まり返ったという。
吉原は不動の司令塔として41年の優勝に貢献。東西対抗では「元気いっぱい、はつらつ、さっそうとして戦い、僚友の士気を高めた」としてMVPに。奇しくも日米開戦の日に、吉原は表彰された。そのオフ、吉原は応召。44年にビルマのインパール戦線で玉砕した。
吉原が4年間、着けていた背番号は27番。それは時を経て、森昌彦が継承して巨人のV9を支え、さらには巨人にとどまらず、
西武で
伊東勤や
ヤクルトで
古田敦也らの背中で輝いた。捕手の背番号27は、この2020年にもつながっている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM