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プロ野球20世紀・不屈の物語

戦後の焼け跡に架かった”虹のアーチ”、突き抜ける空のような”青バット”。大下弘の驚天動地【1945〜47年】/プロ野球20世紀・不屈の物語

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

焦土に颯爽と登場した無名の若者


セネタース・大下弘


 1945年8月15日、終戦。つい先日、この日のことを聞く機会に恵まれた。すぐそこまで平和の足音が迫っていることを知る由もなかった人々は、その日も空襲におびえながら朝を迎え、その朝に産気づいた女性は、いった防空壕から出て出産し、生まれたばかりの赤ん坊を抱えて防空壕に駆け戻ったのだという。玉音放送は青天の霹靂だったことだろう。戦争の恐怖から解放されたが、困難が終わったわけではない。常識も覆された。それまで禁じられていたことが許され、当たり前だったことが否定されたのだ。その秋に早くも東西対抗戦で復活したプロ野球については、この連載でも触れた。球場へ駆けつけた人々の目には、プロ野球までが別のものに映ったのではないか。

 この東西対抗戦からプロ野球に参加した新チームのセネタース(現在の日本ハム)。そこに、ほぼ無名で、もちろんペナントレースの経験もない1人の若者がいた。その名を大下弘という。神戸に生まれ、母親の女手ひとつで育てられた。やがて日本の統治下にあった台湾へ移って、高雄商では野球部をはじめ、陸上、柔道、相撲と掛け持ち。野球の道で明大へと進んだが、すぐに東京六大学リーグが中止に追い込まれ、明大のユニフォームを着て公式戦に出場することはなかった。そのまま学徒動員で入営。戦後、復活した明大の野球部へ戻り、軍服と長靴で練習に参加する。このときの打球が噂になった。スフ入りの粗悪な球が、軽やかな音とともにポンポンと飛んでいくのだ。セネタース入団が決まるのに、それほど時間は必要としなかった。

 東西対抗の第1戦。神宮球場は小春日和だったという。大下は3安打5打点。そのうち、ノーバウンドで外野フェンスに届いた打球は、それまでのプロ野球では誰も見たことのないものだった。新川球場での第2戦こそ1打席のみで無安打に終わったものの、12月に入り、舞台を西宮球場へ移した第3戦では3安打6打点。このとき初めて右翼席へ飛び込む本塁打を放っている。その虹のような軌跡は、まさに奇跡だった。人々は大下が放つ“虹のアーチ”に、焼け跡からの復興の希望を託していく。それは大下に本塁打が期待されているということでもあった。

戦後の復興、プロ野球の進化


 翌46年、ペナントレースが再開。大下は人々の期待に応えるため、ひたすら本塁打を狙い続ける。「外角は打てない」「変化球は打てない」とキッパリ。全8チーム、全体で211本塁打というシーズンにあって、大下は20本塁打を放って「驚天動地」と騒がれる。それまではシーズン10本塁打が最多で、その倍を放ったことになる。もちろん本塁打王。期待に応えたのだ。ただ、80三振も当時は驚天動地の数字。ポンポンと打球がスタンドへ飛び込むことから”ポンちゃん”の愛称もあった大下だが、そのためにブンブン振り回していたことが分かる。

 これで目の色を変えたのが各チームの主力たち。彼らが飛ぶ打球の研究を重ねたことで、プロ野球の進化も始まった。これによって期待の集中から解放された大下は、対照的に安定感を追い求めていく。その46年6月、巨人川上哲治が復帰。同じ左打者の川上に、大下はあこがれを寄せ、ライバル心を燃やした。川上の“赤バット”が復興の象徴と騒がれると、大下は「突き抜けるような青でいこう」と“青バット”に。メーカーに塗ってもらったという説と、自らスプレーで塗っていたという説があるが、どちらが事実なのかを確かめる資料は残っていない。もしかすると、どちらも事実なのかもしれない。翌47年、塗料が粗悪で、球に色がついてしまうことから、すぐに“赤バット”も“青バット”も禁止されたが、大下はリーグ最多の137安打を放って、17本塁打、打率.315で本塁打王、首位打者の打撃2冠に輝いている。

 プロ野球の長い歴史で、颯爽と登場した新人は数えきれないが、その鮮烈さで大下をしのいだ選手はいないだろう。打棒の衝撃もさることながら、その背後には戦争の爪痕があった。大下の鮮烈さは、誰も超えてはいけないものでもある。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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