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プロ野球20世紀・不屈の物語

どん底チームのエースと最強チームの四番打者。平松政次と長嶋茂雄の名勝負/プロ野球20世紀・不屈の物語【1967〜74年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

37年間も優勝と無縁の大洋


大洋・平松政次


 プロ野球の長い歴史で、もっとも長く優勝から遠ざかる雌伏の時間を過ごしたチームは大洋、現在のDeNAだった。初優勝は比較的(?)早く、創設11年目には6年連続の最下位という深い暗闇から初のリーグ優勝、その勢いのまま日本一の座へと一気に駆け上がったが、すぐに転落。そこからが長かった。チームが川崎から横浜へ、大洋ホエールズから横浜ベイスターズへと変遷するエポックを挟みながら、37年間も優勝とは無縁だった。2度目の優勝、そして日本一は地元の横浜を中心に歓喜の渦を巻き起こしたのも当然のことだっただろう。

 逆に、もっとも長く頂点に立ち続けたのはV9時代の巨人だ。数えるまでもなく、9年連続でリーグを制し、日本一にも輝き続けた。それ以前の黄金時代のほうが強かった、あるいは、のちの黄金時代の西武のほうが強い、など、さまざまな声もあるが、結果だけ見れば、最強チームはV9時代の巨人にトドメを刺す。なにせ、ずっと優勝しているのだ。38年ぶりの歓喜に沸いた横浜とは対照的に、どこか退屈してしまう巨人ファンがいたのもやむをえまい。それくらい強かったのだから。

 では、そのV9の期間、どん底の大洋が、最強の巨人と対決して、まったく歯が立たなかったかというと、そうでもない。もちろん大洋が敗れることは多かった。だが、この時期には巨人、特に四番打者の長嶋茂雄に牙をむいたエースが大洋にはいたのだ。平松政次。巨人戦の通算51勝は金田正一(国鉄。現在のヤクルト)に次ぐプロ野球2位だが、白星が先行している投手ではトップになる。1967年シーズン途中に大洋へ。その1年目だけ長嶋と同じ背番号3だった。

 もともと巨人、それも長嶋のファン。巨人への入団が有力視され、前年の2次ドラフト2位で指名され、すぐに入団しなかったことも、次のドラフトで巨人から指名されるのを待つと噂された。だが、67年の夏に日本生命を都市対抗で優勝に導いて橋戸賞に輝き、それを手土産に大洋へ。巨人への対決姿勢も明確に示した。

 1年目から背番号3同士の対決もあった。「少年時代、夢にまで見た人ですよね。三塁に長嶋さん、一塁に王(貞治)さん(をバックに投げている)という夢でしたが(笑)。天にも上るような、自分が宙に浮いているみたい」と、このときのことを平松は振り返っている。すさまじいキレ味の“カミソリシュート”を手にしたのは69年の春季キャンプで、以降12年連続2ケタ勝利とエースの座を不動のものにした。巨人キラー、長嶋キラーとして名を馳せるのも、このときからだ。

巨人の四番、沈黙す


巨人・長嶋茂雄


 2年目の68年に長嶋から場外弾を浴びたことでプロの厳しさを痛感した平松。シュートを駆使するようになってからは長嶋との対決で優位に立った。平松は遊び球を挟まず、3球で決めようと投げ込んでくる。右打者の体に向かっていく軌道で内角に食い込む平松の“名刀”に、長嶋は苦戦した。72年7月20日のダブルヘッダー第2戦(後楽園)から約1年間、長嶋は25打席連続で無安打。そして73年7月17日の後楽園で、長嶋は左翼席へ本塁打を放ち、やっと暗闇から抜け出した。

 平松の攻略に腐心した長嶋は、投球の途中でグリップを短く持ち替えたことがあった。「おかしな打ち方だな、最初からすればいいのに、と思ったんですが、(平松が引退してから)『あの巨人の四番が最初からバットを短く持ったらファンに申し訳ないじゃないか。打つ瞬間ならファンも分からないだろう』って。うれしい限りです」と平松。長嶋が引退するまでの8年間で、通算181打数35安打、8本塁打、33三振、打率.193だった。

 ただ、左打者の王には外角へ逃げていくようなシュートは見逃され、内角へ甘く入った球は、ことごとくスタンドへ運ばれた。14年間で通算235打数87安打、25本塁打、25三振、打率.370。最強の巨人キラーも“ON”を続けて打ち取るのは至難の業であり、だからこそV9巨人が最強だったのだろう。そんな個と個の激突に、ファンも燃えたのだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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