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プロ野球回顧録

【1980年】新人・岡田彰布の起用をめぐり大混乱。阪神・ブレイザー監督、途中退団/プロ野球回顧録

 

持ってる男のはずが?



 東京六大学史上に残る強打者・早大の岡田彰布。1979年秋のドラフト会議では6球団が1位指名で競合し、相思相愛の阪神が交渉権を獲得。ここまでは、まさに“持ってる男”だった。

 岡田の大学時代のポジション、サードにはミスター・タイガース、掛布雅之がいたが、それでも岡田は「ずっとやってきたので、三塁手に愛着があります。掛布さんに挑戦するつもりでやりたい。最初からコンバートではなく、競わせてほしい」と話し、1月の自主トレでも「サードの岡田です」とあいさつした。

 この時点でブレイザー監督は「三塁は掛布だ。岡田にはセカンドかショートで使いたい」と言っていた。当時の阪神内野陣はショートのレギュラーは真弓明信でほぼ固定、セカンドは榊原良行加藤博一中村勝広で競い、一塁には故障の藤田平に代わり、佐野仙好が入っていた。

 アリゾナでの春季キャンプではシートノックでもファーストに入ることが多く、ブレイザー監督が佐野をセンターにコンバートしたことで、「岡田のためにポジションを空けたのでは」とも言われた。

 しかしキャンプ中に元ヤクルトのセカンド、ヒルトンを獲ったことで話がややこしくなる。ヒルトンは肩を壊しており、入れるとしたら一塁しかない。ここから岡田は外野守備の練習もスタート。それに対し、不満を漏らしたとも伝えられた。

 当時、ブレイザー監督は、マスコミに対しても、こう断言してた。

「アメリカではルーキーがすぐメジャーに上がってくることはあり得ない。2A、3Aで結果を出し、一段一段上がってくるのが当たり前だ」

 しかしながら、新しきスターを期待する阪神ファン、また岡田で観客動員アップを期待する球団の思惑はまた違う。さらに言えば、阪神ファンは、もともと田淵幸一西武に放出したブレイザー監督に、いい感情は持っていなかった。

 オープン戦、さらに開幕後も岡田は代打要員。徐々に甲子園の雰囲気がおかしくなる。一塁で起用されたヒルトンが打席に入るたび、大「岡田コール」。ここでヒルトンが打てば少しは収まったのかもしれないが、絶不調とあって、そのコールがどんどんエスカレート。球場を出て、家路に向かうヒルトンが乗ったタクシーをファンが囲んで罵声を浴びせながら揺さぶるなどもあった。

1日50本以上の抗議電話


阪神・ブレイザー監督


 ブレイザー監督も「やりにくくてしょうがいない。われわれは岡田のために野球をしているわけではないんだ」と日増しにイライラ。これで感情的になったのか、掛布が故障離脱となっても、センターの佐野をサードに回し、岡田を使わなかった。実際には岡田が肩の張りを訴えていたこともあったが、こうなると阪神ファンもさらにエスカレート。球団には1日50本以上の抗議(脅迫)電話があったという。

 4月22日、小津正次郎球団社長がブレイザー監督と会談。のちブレイザー監督は「社長に命じられたからではなく、岡田にとってよいタイミングだったから」と話しているが、とにかくこの日、「八番・三塁」でプロ初スタメン出場となった。

 ヒルトンは5月10日に解雇。ブレイザー監督も、自分に黙って球団が新外国人のボウクレアを獲得したことに怒り、15日に退団した(後任は中西太コーチが昇格。中西コーチは新人・岡田を入団時からマンツーマンで指導していた)。

 この年、岡田はサード、セカンド、ファーストなどを守り、108試合に出場。規定打席も到達し、打率.290、18本塁打、54打点で新人王にも輝いている。8月19日にはセ・リーグ通算2万号本塁打も放ち、やっぱり“持っている男”だったことを証明した。

写真=BBM
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