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トレード物語

トレード物語 開幕直前に近鉄・吉井理人がヤクルトへ電撃移籍、野茂直伝のフォークで再起

 

一度は“破談”になったが……



 1995年の開幕直前。あるニュースに衝撃が走った。近鉄・吉井理人とヤクルト・西村龍次の交換トレード。ともに球団の主力投手だったが、西村が新人から4年連続2ケタ勝利をマークしたのに対し、吉井は近鉄で守護神として活躍し、先発としての実績は西村に劣っていた。当時のヤクルトには高津臣吾という絶対的な守護神がいたため、「吉井をどこで起用するんだろう?」という見方があった。
 
 吉井は88年に10勝2敗24セーブで最優秀救援投手を獲得。93年から先発転向したが、同年は5勝、翌94年も7勝と不本意な成績に終わった。だが、ヤクルトの野村克也監督は鋭い観察眼と深い洞察力で吉井が先発の軸として活躍する可能性を見出していた。

 ただ、実はこのトレードは早々に実現するはずだった。きっかけは前年シーズン終盤のこと。9月25日のロッテ戦(千葉マリン)で起こった、ある“事件”だった。キャンプ中に痛めた右ふくらはぎが再び悪化したことが影響し、8月下旬から4連敗中と結果が出ていなかった吉井。その日、先発マウンドに上がるも4回に3失点。鈴木啓示監督からあっさり交代を言い渡された、そのときだった。

 自分自身の“不甲斐なさ”に、持っていたボールを思わず蹴とばすという前代未聞の行為に出てしまったのだ。これを問題視したのが、近鉄フロント。「相手に対しても、非常に失礼な行為」(球団首脳)と、厳重注意を吉井に言い渡した。同年6月にも同じロッテ戦で途中降板に不満の意をあらわにし、鈴木監督の前で大きくジャンパーを翻すといった行動を見せた吉井。このように喜怒哀楽をはっきり見せる性格が、吉井の特徴であり、また欠点なのも確かだった。

 仰木彬前監督はそうした強気な面を買って、リリーフエースとして起用。成功させたのだが、鈴木監督をはじめ、当時の首脳陣はそのあまりに激しい“気持ちのムラ”に、あまり高い評価をしていなかった。現場側の“低評価”と球団フロントの不快感。この2つが一気に重なり、トレード要員として加速度がつくのに時間はかからなかった。近鉄は西村に目をつけ94年11月下旬の時点で両球団のトレード担当部門の間では、早々と“合意”に達していたという。

 だが、なんと話を持ち掛けた側の近鉄が“待った”をかけた。94年の西村の年俸は7800万円、対する吉井は4200万円(金額はともに推定)。この“年俸格差”で慎重論が出たのだ。「ウチらしいな。お金のことでストップするなんて」という近鉄関係者もいた。だが、いったんは“破談”にしておきながら野茂英雄がメジャー・リーグ挑戦を理由に退団するとまたぞろこの話が再燃してきた。先発の柱がどうしても欲しいと近鉄側がヤクルト側に再検討を持ちかけ、結局95年開幕直前に実現したのだった。

 和歌山で育って、大阪・藤井寺を本拠地にする近鉄で11年間と、まさに関西で生まれ育った吉井。そんな男が住み慣れた近鉄を離れ、新天地・ヤクルトへ。しかし、トレードが決まって発した吉井の第一声はサバサバしたものだった。

「これで、すっきりしましたよ。一度は、お客さんの多い中で投げてみたいと思っていましたからね。野村監督は投手の指導には定評があると聞いているし、楽しみにしていますよ。学ぶことも、いっぱいあるでしょうからね」

移籍1年目から3年連続2ケタ勝利


 野村監督の教えを学んだ吉井は移籍1年目から3年連続2ケタ勝利と先発の柱として大活躍。特にプラスになったのは近鉄時代のチームメートだった野茂直伝のフォークで奪三振も急増したことだ。94年夏、不調で二軍落ちしていた吉井は、右ヒジ痛でファーム行きを宣告された野茂にフォークの“秘密”を教わったという。初めからフォークの握りをするのではなく、直球の握りで振りかぶり、テークバックのときにクルッと回転させ、指で挟む。野茂はそれにさらに回転を加え、揺れ動くボールを投げるが、吉井は一度浮き上がってから落ちるクセのある軌道を描くようにした。

 移籍1年目、吉井の自宅には野茂が自分の指でなぞってくれたフォークの握りの描かれたボールがあった。大阪から東京にやってきたばかりのころは若手とともに寮生活をしていたが、このボールだけは肌身離さず持っていた。その後、都内マンションに移ったが、試合登板後も自宅に帰ってはソファーに座って握りを復習した。

 97年には自己最多の13勝を挙げてチームの日本一に貢献。おとなしいヤクルトナインの中で珍しく感情を露わにした吉井は、打ち込まれた後はベンチで大暴れしたことも。その音に驚いて天井に頭をぶつけた野村監督から「俺を殺す気か?」と言われた。

 97年に日本人選手では史上初のFA権を行使してメジャー移籍へ。巨人中日西武など国内他球団の誘いを断り、わずか年俸20万ドルでメッツと契約を結んだ。99年に先発で12勝を挙げるなどメジャーで5年間プレーし、03年以降はオリックス、ロッテで42歳までプレーした。NPB通算89勝82敗62セーブ、防御率3.86、MLB通算32勝47敗1ホールド、防御率4.62。日米7球団を渡り歩き、コーチとしてもダルビッシュ有(カブス)や大谷翔平(エンゼルス)の指導に当たり、現在はロッテの一軍投手コーチを務めるなど名伯楽として評価が高い。

近鉄・西村龍次


 一方、吉井と交換トレードで近鉄に移籍した西村は先発の柱として期待されたが、在籍3年間で計5勝に終わり97年で自由契約に。だが、このままでは終わらなかった。98年にテスト入団したダイエー(現ソフトバンク)で5年ぶりの2ケタ勝利をマークしてカムバック賞を受賞。ヤクルト時代の92、93年に開幕投手を務めてチームがリーグ優勝したことから、ダイエーでも99〜01年と3年連続開幕投手を務め、01年限りで現役引退した。NPB通算75勝68敗2セーブ、防御率3.76。ヤクルトから移籍後は苦難を味わったが、立派な数字だ。

写真=BBM
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