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プロ野球20世紀・不屈の物語

アキレス腱痛で再起は絶望的……谷沢健一に起きた“奇跡”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1977〜80年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

ファンからの電話



 プロ野球の選手は、常に故障の危険と隣り合わせにいる。これは今も昔も変わらないことだ。その長い歴史で、ケガで選手生命を縮め、あるいは断たれた選手は数えきれない。ただ、医学などの進歩により、かつては現役の続行が絶望視されるような故障からも、復活する選手は増えてきた。リハビリが過酷なのは変わらない。だが、以前は復活の可能性が低かったことで、懸命なリハビリは絶望と隣り合わせだったのだ。

 かつても、そんな長い不屈の戦いを制して、復活を遂げた選手も少ないながらいた。その復活劇は、しばしば「奇跡」と表現される。もちろん、故障に苦しみ、手術を受け、リハビリで絶望と戦い、ふたたびグラウンドに立つプロセスを、ひと言で表現するならば、「奇跡」で間違いないだろう。ただ、釈迦やキリストが起こしたとされる”奇跡”とは趣が異なり、科学的に証明できるものであったことも確かだ。

 だが、中日でアキレス腱痛から復活した谷沢健一だけは、世にも不思議な経過をたどっている。谷沢は中日の歴史においても屈指のヒットメーカーだが、プロ入り前から「左アキレス腱の付け根に軟骨のようなものがあって、疲れると痛んだんです」(谷沢)という持病のようなもの。これが急激に悪化したのは初の首位打者に輝いた翌年、1977年のオフだった。翌78年は治療をしながらの出場だったが、最終戦でアキレス腱の一部を断裂してしまう。

 絶望の日々が始まった。最初に絶望を突きつけたのは中日だ。「35パーセント、年俸を下げられました。25パーセント以上は野球協約でダメなんですが、選手が了解すれば、その限りじゃない。ひどい協約ですよね(笑)」(谷沢)。その翌79年は春のキャンプに参加したものの、痛みで何もできず、1週間で帰った。「もう終わりだな、と。名古屋も引き払うという話までした。どん底でしたね」(谷沢)。

 そんな谷沢に1本の電話がかかってくる。谷沢を案じる中日ファンからの電話だった。もちろん知人ではない。「こんな治療があるけど、どうですか」という内容だったという。谷沢は断ったが、その後も2度、3度と電話がかかってきた。「お前さんの顔を立てる。行ってみましょう」……ついに谷沢が折れた。3年前の首位打者は、不思議な世界へと導かれていく(?)。

「なぜか鉄工所に入っていくんです」


 ここからは、いくら丁寧に書いても信用されないこともある気がする。2013年のインタビューで当時を振り返った谷沢の言葉があるので、そこから抜粋してみたい。谷沢の脳裏に残る映像は鮮明だ。以下、怪談の達人のような口調で読み進めていただければ、このときの谷沢の不安に近づけるのではないだろうか。

「(電話のファンは)愛知県の春日井市で金物屋をやっている人でした。そこから彼の車で郊外に行ったら、なぜか鉄工所に入っていくんです。そこに平屋の離れがあって、のぞいたら20人、30人と、人がいるんですよ。治療を待っているようでした。部屋の中央に、せんべい布団があって、75歳くらいのおじいさんが、ときどき水のようなものをたらしながら、マッサージをしているんです。僕は30分くらい見ていたけど、これで治るわけないな、と思って帰りかけたんです。そうしたら、おじいさんに呼び止められて。すぐ見てやるから待ちなさい、って。

 それで、せんべい布団に、うつぶせで寝たら、周りから言われた。『谷沢さん、すごいですね。足の長さが左右で3、4センチ違います』って。自分では気づかなかったんですけど。それで、おじいさんが黙々と、足の指を引っ張りながらマッサージするんです。シャンプーの容器に入った、水みたいのをかけてね。それで足の指先が、だんだんそろっていくわけなんだけど、時間が経つにつれてプンプンにおってくるんです。(水のようなものは)日本酒なんだね、これが(笑)」

 リアリティーがあるような、ないような、まるで眠っているときに見る夢のような雰囲気に近い。谷沢の回顧は次回に続く。この摩訶不思議な世界は、谷沢に訪れる“奇跡”の始まりだった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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