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プロ野球20世紀・不屈の物語

日本酒マッサージで復活した谷沢健一、2度目の首位打者に/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜80年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「おじいさんに賭けるしかなかった」



 アキレス腱痛に苦しみ、年俸も大幅に減らされて、引退も頭をよぎっていた中日の谷沢健一にかかってきた、ファンからの1本の電話。あまり知られていない治療を紹介する内容で、いったんは断った谷沢だったが、最終的には根負け。そしてファンの車に乗せられ、なぜか鉄工所の建物へと入っていく。そこで目にしたものは、老人が水のようなものを使って患者にマッサージしている姿だった。あきれて帰ろうとした谷沢は、その老人に呼び止められ、とりあえず施術を受けることに。その水の正体は、日本酒だった。これが、この連載における前回の内容。1979年の春のことだ。なんとも不思議な世界に紛れ込んでしまったかのような谷沢だったが、施術を受けながらも半信半疑だったという。前回に引き続き、谷沢の言葉で振り返っていく。

「こんなんで治るかと思っていたけど、3日間、続けてみたら、朝、起きると足がポカポカしてきた。僕は夏でも靴下をはくくらい冷えるほうだったのがね。それで、これは自分に合っているかもしれない、と思ったんです。それで、もう一度やってもらおうとしたら、おじいさんは帰ったって言われた。もともと福岡の人で、年に1カ月くらい、名古屋の財界の人がお願いして、数カ所で治療していたらしい。それで僕も追いかけていったんです、福岡まで。家まで押しかけて、治療してください、って頼んだんです」

 絶望の深い暗闇の底で、唯一の光明を見た思いだったのかもしれない。

「10日間くらい泊まったかな。おじいさんは『これで終わるのも悔しいだろう。ただ、たくさん注射とかしてるから、5カ月くらい我慢しなさい。夏になれば走れるようになる』と。もう、おじいさんに賭けるしかなかった」

 徐々にではあったが、足は確実に動くようになってきたという。

「戻ってからも、(老人が)名古屋に来たときに治療してもらった。風呂あがりに自分でもマッサージしてね。当時でいう2級酒のほうがよかった。1級や特級だと体につけたときベタベタするんですよね。それで7月くらいから少しずつ走れるようになったんです。それで8月に1週間、ファームと一緒に浜松で合宿させてもらったんです」

 そこで、ほぼ周囲と変わらずメニューをこなした谷沢だったが、その“奇跡”の回復を球団は信用しなかった。それくらいの重傷だったということでもあるが、

「球団の総務が治療を見に来たら、胡散臭そうな顔をしていました(笑)」

老人の正体


日本酒でのマッサージが谷沢を救った


 最先端の西洋医学からさまざまな東洋医学にも見放された谷沢ではあったが、老人による日本酒マッサージを経て復活したのは間違いなかった。巨人長嶋茂雄監督から「長靴を履いてきたのか」と言われるような、くるぶしまで固定する特製のスパイクを身に着けて、9月23日の大洋戦(ナゴヤ)で打席に帰ってきた。

「一、二塁間にライナーでヒットを打って、一塁を蹴ってオーバーランしてね。あのときは、うれしかったね」

 谷沢の回顧は老人のことに戻る。

「あとで知ったんだけど、小山田秀雄さんというんですが、西鉄で三原(脩)監督の“陰のトレーナー”と言われていたらしい。昭和33年(1958年)に日本シリーズで稲尾(和久)さんが投げまくったときがありましたが、そのおじいさんがいたおかげらしい。経歴がすごいんですよ。日本軍の特務機関員、つまりスパイで、戦争で日本の国籍を抹消され、中国の戦線に行っていた。そこで軍医から自分の体を自分で治す方法を教わったらしい。それが酒なんですよ。捕虜になったときに拷問されても、末期の酒を、とか言って酒をもらい、それで体を治して、逃亡の機会をうかがうんですって」

 それから40年ほどが経つが、この治療法は人口に膾炙したとは言いがたい。医学的に実証されたかどうかも定かではない。ほんとうに“奇跡”だったのかもしれない。ただ、その翌80年に谷沢は打率.369というハイアベレージで2度目の首位打者に。これは動かしがたい事実だ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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