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プロ野球20世紀・不屈の物語

あわや落合の交換要員でロッテへ? 90年代“最強のエース”斎藤雅樹の80年代/プロ野球20世紀・不屈の物語【1983〜89年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

制球難のオーバーハンド



 1990年は、平成2年。つまり、初めて平成として迎えた新年から、90年代は始まったことになる。元号も変わったが、時代も変わった。80年代までは、「明日は今日より素晴らしい」というような希望があったが、それが希薄な望みだということを思い知らされたのが90年代だった気がする。楽観的な“バブル”は崩壊して景気は低迷。その後たびたび「景気は上向いた」と言われてきたが、現在に至るまで、それを実感した人は極めて少ないだろう。

 プロ野球の世界では、有力な選手のメジャーへの流出が始まった。それまでの価値観が次々に否定され、新たなものに価値が見いだされるようになった時代だったようにも思える。そんな90年代で、もっとも勝ち星を挙げたのは、巨人の斎藤雅樹だった。90年代の10年間で126勝。ちなみに、2位は阪急からオリックスにかけて活躍した星野伸之の118勝、3位は西武からダイエーへ移籍して黄金時代の懸け橋となった工藤公康の111勝だが、この2人の左腕は防御率3点台。斎藤は防御率2.90で、安定感でも群を抜いている。

 斎藤のブレークは20勝を挙げて初の最多勝に輝いた89年。89年から98年の10年間を切り取れば、勝ち星も突出したものになってくる。その89年の斎藤はプロ7年目。突然のブレークは巨人のv奪還に大きく貢献したが、それまでは決して順調だったわけではない。

 ドラフト1位で83年に入団。ただ、これは“外れ1位”。ドラフトの目玉は甲子園でアイドル的な人気を集めた早実高の荒木大輔(のちヤクルト)で、荒木を指名して抽選で外した巨人が指名したのが甲子園の経験がない斎藤だった。このときのことを振り返る斎藤も実に淡々としている。「(指名されたことは)授業中で知りませんでした。どこの指名でもプロに行くつもりでしたが、ほかに熱心な球団があったので、そこだと思っていました。休み時間に部長が入ってきて巨人の1位だと言われて。その後は、みんな大騒ぎでしたね」(斎藤)。当時の斎藤はオーバースロー。さらに、制球も悪かった。

 もちろん開幕は二軍スタート。一軍に上がることなく閉幕を迎えた。ただ、5月に転機があった。野手に転向する可能性すらあった斎藤だったが、二軍を視察に訪れた藤田元司監督が「腰の回転が合っている」とサイドスローへの転向を指示。これで制球力が改善、ストレートのキレも増し、カーブは外角へ投げたものが左打者に当たりそうになるほど大きく曲がるようになった。そのオフに藤田監督は退任。運命の歯車は、まだ一瞬だけ噛み合っただけだった。

85年にプチブレークも……


 翌84年に一軍デビューで4勝、その翌85年は先発、救援にフル回転して12勝7セーブ。「投げるのが楽しくてたまらなかった」(斎藤)1年だった。ただ、今風にいえばプチブレーク。そこから斎藤は失速してく。86年オフにはロッテで2年連続3度目の三冠王となった落合博満が移籍を志願して騒動に。最終的には中日へ移籍するのだが、巨人も獲得に向けて動いていた。

 このとき交換要員の1人として騒がれていたのが斎藤。実際、球団代表から「あす電話をくれ」と言われたことがあったというが、「やっぱりトレードだと落ち込んでいたら、夜に中日へ移籍というニュースがあって、よかった、って(笑)。次の日に電話したら、『トレードという噂があったけど、そんな話はなかった。これからも頑張ってくれ』と。『はい』と言いながら、絶対ウソだって思いました(笑)」(斎藤)。

 だが、続く87年はヒジ痛もあって勝ち星なし。その翌88年は6勝も、まだ計算できる投手ではなかった。そのオフ、藤田監督が復帰。迎えた89年、先発完投を重視する藤田監督の下、先発に定着する。

 しかし、なかなか勝てず。「今度ダメなら先発はない」という危機感で臨んだ5月10日の大洋戦(横浜)で完投すると、以降11連続完投勝利のプロ野球新記録。最終的には防御率1.62で最優秀防御率にも輝き、投手2冠。ふたたび噛み合った運命の歯車は、すさまじい勢いで回り始め、90年代へと突入していった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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