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プロ野球20世紀・不屈の物語

江川と同室でスタート、働き場所を失って移籍を志願。鹿取義隆の19年/プロ野球20世紀・不屈の物語【1979〜97年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

メンタルも強靭



 巨人で先発完投を重視する藤田元司監督が復帰した1989年に20勝を挙げてエースに名乗りを上げた斎藤雅樹については2度にわたって紹介したばかりだ。光があるところには必ず影がある。完投する力のある投手が真価を発揮した一方で、活躍の場所を失ってしまったのが、連投に次ぐ連投でも安定感を維持するリリーバーだった。藤田監督の前任は、王貞治監督。その必勝リレーを担った鹿取義隆は、特に登板機会が激減した。シーズン終盤からトレード報道が盛んになり、最終的には自ら移籍を志願。新天地の西武で、さらに輝きを放つことになる。

 87年にはリーグ最多の63試合に投げまくって7勝18セーブを挙げた鹿取。王監督が率いた5年間では275試合に登板している。王監督が必勝パターンにこだわったこともあり、酷使を意味する「カトられる」が流行語になったりもしたが、当の鹿取には充実感があり、「酷使なんて思ったことはない。使ってもらえるなら燃焼しよう、壊れてもいい、監督の期待に応えたい、と思った」のだという。トレードマークといえる絶対的なウイニングショットがなく、ストレートのキレと低めへの制球で勝負する、当時としても異色のリリーバー。のちに最大の武器として「どんなときでもド真ん中に真っすぐを投げられる気持ちと投げ方」を挙げている。メンタルもタフだったのだ。

 入団は79年。ドラフト外での入団だったが、この前年の秋は、史上もっとも荒れたドラフトだった。巨人はドラフトをボイコット。野球協約のスキを突いた“空白の1日”で江川卓と契約したことが問題になった、いわゆる“江川事件”だ。これについては以前、江川の1年目を紹介した際に詳しい。結局、江川は阪神を経て巨人への入団を果たすのだが、チーム内には不協和音が残り、当時まだ現役だった王が「江川くんと同室だったら?」と訊かれ、「できれば避けてほしい」とこぼしたことにも触れた。

 そんな江川と宿舎で同室になったのが1歳だけ江川より年下で、日米野球でチームメートだったこともある鹿取だ。背番号も鹿取が29、江川が30。一挙手一投足、なにかと騒がれる江川と、行動をともにすることも多かった。「江川さんは同世代のヒーロー。大変だな、ってファンみたいな気持ちで応援していたよ」と鹿取は当時を振り返っている。1年目からリリーバーとして適性を発揮して、オフには伝説の“地獄の伊東キャンプ”にも参加。「あんなに練習したのは生まれて初めてでしたが、心身ともに大きくなれたと思います」という。

買って出た最後の仕事


 鹿取が登板を半減させた89年は、黄金時代にあった西武が5年ぶりに優勝を逃したシーズンでもあった。敗因はクローザーの不在。鹿取にとっても西武にとっても、移籍は成功だった。長くタイトルとは無縁だった鹿取は、3勝24セーブ、27セーブポイントで最優秀救援投手に輝き、10試合連続セーブのプロ野球新記録も樹立。西武も王座を奪還して、日本シリーズでは鹿取の古巣でもある巨人に無傷の4連勝で日本一にも返り咲いた。

 リリーフという役割は変わらなかったが、ベテランとなった鹿取に求められる役割は少しずつ変わってきていた。92年からは3年目の潮崎哲也との“ダブル・ストッパー”、翌93年からはリリーフ陣に新人で左腕の杉山賢人も加わり、3人は“サンフレッチェ”と呼ばれ、ふたたび流行語にも。その精神的支柱こそ鹿取だった。

 西武は90年から3年連続で日本一、5年連続でリーグ制覇。鹿取も92年には10勝16セーブで、初めて2ケタ勝利もマークしたが、印象に残るのはヤクルトとの日本シリーズ第1戦(神宮)だという。延長12回裏、杉浦享にシリーズ初の代打逆転サヨナラ満塁本塁打を被弾。「抑えたことより打たれたことのほうが忘れないね」(鹿取)という。左ヒザを痛め、球のキレが消えたことで、97年に引退を決める。鹿取は8試合の登板にとどまったが、西武は3年ぶりリーグ優勝。ヤクルトとの日本シリーズの準備をする若いチームメートのために打撃投手を買って出たのが最後の仕事だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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