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平成助っ人賛歌

清原和博と人気を二分した阪急・アニマルはなぜ2年で自由契約に?/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】

 

ギラついたハングリー精神


阪急・アニマル


 1987年、コロコロコミック6月号で『かっとばせ!キヨハラくん』の連載が始まった。

 掲載号の表紙を見てみると、『高橋名人物語』や『つるピカハゲ丸』、さらには『がんばれ!キッカーズ』や『ビックリマン』といった看板作品が並んでいる。80年代後半の小学生文化の流行がすべて詰まっていると言っても過言ではないだろう。そこで19歳のプロ野球選手を主役にした漫画が始まるわけだ。それほど西武ライオンズのニューヒーロー清原和博人気は凄まじかった。

 当時、そんなキヨマー(清原の愛称)と人気を二分していたのが、阪急ブレーブスの助っ人投手である。本名ブラッド・レスリー、通称“アニマル”だ。本連載は平成に活躍した選手だけでなく、平成突入直前の昭和末期の外国人選手も取り上げてきたが、今回はそのアニマルを紹介しよう。1986年(昭和61年)に来日したアニマルは、いわば85年ドラフト1位の清原とは日本球界で“同期”にあたる。公称で身長200cm、体重100kgの巨漢投手は、78年ドラフト1位でシンシナティ・レッズに指名された将来を嘱望されるプロスペクトだったが、大リーグでは通算54試合で1勝3敗6セーブ、防御率3.86と伸び悩み、27歳の若さでの日本行きを決断する。

 アニマルのときにマウンド上で同僚を怒鳴りつける“野獣”とも評される闘争心を気に入り、上田利治監督自ら渡米して獲得を決めた。趣味はワイルドに山での木こりとドラムセットを叩くこと。背番号50でわずか年俸3000万円、同年に西武へ入団した新外国人ジョージ・ブコビッチの年俸は1億2000万円だったが、その2つ年上のブコビッチとは高知キャンプ中に、ホテルのラウンジで遭遇。ビールをおごると誘われたが、負けん気の強いアニマルは「いや、オレは自分の酒は自分で払う。ここに座るが、おごってなんかもらわないよ」とキッパリと拒否をする。「ヤツのトシには、オレも同じぐらいの給料をもらってやるさ」なんてギラついたハングリー精神で周囲を驚かせた。

 春季キャンプの紅白戦で抑えるとエキサイトして、握手しようとした上田監督の胸にグラブをつけた左手でパンチを食らわせ喜びを表現。その後、ボスは1カ月ほど痛みがとれなかったという。ペナント開幕後も、女房役の藤田浩雅捕手と勝利の握手ではなく、パンチに頭突きを食らわせるパフォーマンス。ベテラン投手の今井雄太郎の代わりにマウンドへ上がった際は、すれ違いざまに左肩をグラブでドついてみせた。持ち球は直球とスライダーのみだったが、一軍外国人枠が2名の当時は珍しかった助っ人クローザーを託され、その派手な喜び方はスポーツニュースや珍プレ好プレーでも繰り返し映像が流れ、アニマル人気は急上昇する。

 86年4月12日からの阪急と西武の3連戦、西宮球場には4万人、4万3000人、2万5000人と3日間で計10万8000人という球団史上最高の3連戦観客動員を記録。西武のゴールデンルーキー清原と超獣アニマルの顔合わせは話題となり、実際に4月14日に7対7で迎えた8回に直接対決。アニマルは18歳の清原に対し、最後は142キロの内角高め直球を振らせ尻もちをつかせる3球三振に打ち取り、相撲でいう四股を踏むようなポーズでかがみこみガッツポーズ。場内は笑いと拍手で包まれた。結成されたばかりの女性だけの阪急応援組織「阪急好きやねん会」(すごいネーミングだ)の会員になったばかりの24歳のOLさんは、「清原クンもステキだったけど、アニマルってもっとワンダフル。迫力もあるし、それにあのパフォーマンスにはシビレますわ」というなんだかよく分からないコメントを残している。

レコードデビューも!


『チャンピオン・アニマル』のレコーディングをするアニマル


 長髪にヒゲ面で吼える、うなる、投げる、叫ぶ、殴るというブルーザー・ブロディばりの派手なアクションに、アニマルの周りには少年ファンがサインを求めて殺到。当時の『週刊ベースボール』には「子どもたちの間でアニマルごっこなるものが流行してるそうである」なんてレポートまで掲載されている。

 6月まで負けなしの12セーブとほぼ完璧な投球を続け、7月5日には自身が熱唱したレコード『チャンピオン・アニマル』を発売。意外に本格的なロックンロールナンバーで「オレのライバルはミック・ジャガーだ!」と吼え、曲は西宮球場名物アストロビジョンで「アニマルの1日」というプロモーション映像とともに流された。7月終了時点で26試合に投げ、2勝15セーブ、防御率1.42。86年オールスター戦にも出場し、球団グッズのテレホンカード第1号は、山田久志福本豊といった生え抜きベテラン選手たちより先にアニマルが商品化されるフィーバーぶり。あのころ、清原和博とアニマルの活躍でパ・リーグの注目度は急上昇した。

 しかし、だ。あまりに急騰した人気はチーム内のパワーバランスを崩してしまう。同僚とも上手くやっていたが、夏場には登板拒否はするし、怖がりでワガママという声がチーム内から上がり始めるのだ。投げる前からマウンドにケチをつけ、頻繁にボール交換を要求する神経質な一面や、2、3点差で勝っていても2イニング以上の登板を嫌い、1点差だと1イニングでも相手打線によっては投げるのを拒む。スタミナ不足で、これといった決め球もないので後半戦に打者が慣れてくると分が悪い。さらに当初は来日予定だった恋人キャシーさんは来日せず、独り暮らしの生活は乱れ、明け方まで飲み明かす日々……。 『週刊現代』のインタビューでは、彼女はフィアンセじゃなくガールフレンドだとこんな持論を主張した。

「いままで、あまりに多くのプレーヤーが、結婚したためにハングリー精神を失って、ダメになるのを見てきたから。結婚したら、いわゆる殺人本能ってやつが消える。オレみたいな攻撃的なピッチャーが、それをなくしちゃったらアウトだ」

 それでもチームが3位の86年は42試合で5勝3敗19セーブ、防御率2.63という好成績を残し、球団創立50年目にして初の観客動員100万人突破の原動力となったが、首脳陣の評価は決して高いものではなかった。アニマル自身もそんな雰囲気を感じ取り、なんとペナント終了後も日本にとどまり、助っ人としては異例の秋季キャンプに参加する。いわば残留テストである。スピード不足と球種の少なさの解消のため、スプリット・フィンガード・ファストボール(SFF)の習得を目指し、若手に混じって座禅にもチャレンジした。

出番減に戸惑いも


日本球界で生き残るため座禅にもチャレンジしたが……


 翌87年も外国人選手一番乗りで1月25日に来日、翌26日には合同自主トレに合流と背水の2年目シーズンに臨んだが、新球SFFにこだわるあまり速球の威力が落ちてしまい自身の投球を見失う。登板機会が激減したアニマルは、『週刊ベースボール』87年7月27日号でマーティー・キーナートの直撃インタビューを受けている。

「今季はたった15イニング(7月12日現在、67試合時点)しか投げてないからね。セーブも5だけ。もう、欲求不満の極致さ。過去を振り返っても今年ほど登板イニングが少ない年はないんじゃないかな」

「(パフォーマンスは計算づくか?)冗談じゃないよ!(同席した記者、震える)あのアクションはオレの気持ち、ガッツの表れだ。パンチを浴びせたくてやっているわけじゃないんだ。とにかく、野球が好きで、チームを支えたくて、勝利に導きたい……そんな気持ちのすべてがあのアクションにあるんだ」

「この前、セーブを挙げたとき、キャッチャーの藤田にヘッド・パットを食らわす前に左フックをお見舞いしたら、頭が360度回転したっけ。あれは登板間隔が空きすぎて欲求不満が爆発して、つい手が伸びてしまった」
 
 言葉の端々からとにかく自分の出番が少ないことに戸惑っている様子が見て取れる。インタビュー最後には「オレは先発でもOKなんだぜ。最低でも6、7イニングはいけるぜ。今年こそ優勝してジャイアンツ相手に日本シリーズで暴れたい。そのためにも1イニングでも多く投げたいんだ」とアピールするも、8月7日の近鉄戦で4点リードの場面で登板すると、四球で走者をため、同点満塁弾を浴び、最後はサヨナラ負け。上田監督も「トロイやつだ」という辛辣な怒りのコメントを残し、アニマルは8月の終わりに肩痛を訴えて二軍落ち。87年は18試合、2勝2敗5セーブ、防御率4.08に終わり、2シーズンで自由契約となり、アニマルは29歳の若さで現役を引退する。

 その後、知名度を生かし日本に残りタレントに転身。芸名“亜仁丸レスリー”として人気番組『風雲!たけし城』などにレギュラー出演した。カンヌ国際広告映画祭グランプリを受賞の日清カップヌードルCMで「hungry?」のナレーションも担当。2013年に54歳の若さで亡くなったが、阪急で過ごした2年間にその後のタレント生活と、彼もまた昭和から平成を股にかけて、日本で生き抜いた助っ人選手のひとりだったのである。

文=プロ野球死亡遊戯(中溝康隆) 写真=BBM
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