プロ野球で超一流と呼ばれる名球会入りしたスターたちの中で、「高校通算0本塁打」から強打者に進化した選手は小笠原道大(現
日本ハム一軍ヘッド兼打撃コーチ)しかいないだろう。
日本ハム、巨人、
中日の現役生活19年間で通算打率.310、378本塁打、1169打点。ヘルメットが吹き飛ぶほどの「フルスイング」が代名詞だったが、ミート能力も高く首位打者を2度獲得している。だが、高校時代まではまったく無名の選手だった。暁星国際高では二塁と捕手を兼任。2年夏に千葉県大会で決勝進出の快進撃を見せるが、注目されたのは同期のエース・
北川哲也(元
ヤクルト)だった。千葉県内では「右の北川、左の石井(
石井一久)」と評価され、高校通算0本塁打の小笠原にとってプロは遠い世界だった。
だが、捕手というポジションに価値を見いだされ、NTT関東で野球を続けたことで運命が大きく変わる。社会人5年目に中心打者として活躍し、1997年ドラフト3位で日本ハムに入団。99年に当時のプロ野球では革命的な「バントをしない二番打者」で一塁の定位置をつかみ、打率.285、25本塁打をマークした。2000年から打率3割、30本塁打を4年連続達成し、02、03年に首位打者を獲得。06年には32本塁打、100打点で2冠王と球界を代表する強打者に。野武士を彷彿とさせるヒゲをたくわえた風貌と構えの際にバットを斜め前に突き出す独特の打撃フォーム。寡黙だが、個性的な生き様でファンの心をつかんだ。
そんな小笠原が巨人へFA移籍したのが06年オフだった。ヒゲをそり落とした顔で記者会見に現れ、「新しいことが始まるので。ずっと決めていた。男のけじめだと思った。風ぼうじゃない。心の部分が一番大事だと思う」と意気込みを口にしていた。だが、責任感の強い小笠原が活躍することを不安視する見方もあった。他球団で主軸として活躍していた選手たちが巨人にFA移籍したが、思うような結果を残せずにチームを去るケースが続いていた。当時の巨人は06年まで4年連続V逸と低迷。打っても打たなくても常にメディアに囲まれる。小笠原にかかる期待は大きかった。
周囲の心配は杞憂に終わった。移籍1年目から打率3割、30本塁打を3年連続マークとリーグ3連覇に大きく貢献。11年にはプロ通算2000安打を達成した。その後はボールが飛ばない統一球の対応に苦しんだが、14年に中日に移籍後はヒゲを再び生やし、代打の切り札として活躍した。15年限りで現役引退を決断。「生涯現役と思っていて、野球への情熱は消えないが、自分のイメージしたものと現実とのギャップが少しずつ出てきた」と引退会見で穏やかな表情を浮かべていた。
同学年の
イチロー、
中村紀洋、
松中信彦、石井一久のようにアマチュア時代から注目されていたわけではないが、人生はいつ花開くか分からない。努力を積み重ねて大輪の花を咲かせた小笠原の野球人生は、好きなことに没頭してなかなか結果が出ずに悩んでいる人たちにとって大きな励みになるだろう。
写真=BBM