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プロ野球回顧録

【1981年】天才打者伝説の本格始動…落合博満、初の首位打者/プロ野球回顧録

 

転がり込んだ無欲の勝利


1981年、27歳の落合


 東芝府中からロッテ入団1年目の1979年、落合博満山内一弘監督の打撃理論と合わず、二軍生活が長くなったのは有名な話だ。2年目の80年は開幕から一軍のはずだったが、オープン戦の守備中に得津高宏と衝突。足をケガして出遅れた。それでもイースタンで5試合連続本塁打をマークし、一軍昇格。57試合で打率.283、15本塁打と非凡なものを見せた。

 迎えた81年、まだ3年目だが、年齢はすでに27歳。「野球は、そんなに長くできるものじゃない。その間に何か残したい」という思いを持っていたという。

 守備位置はセカンド。アマチュア時代は三塁か一塁だったが、三塁にはミスターロッテ、有藤道世がおり、一塁はレオンだ。“そこしかなかった”と言ったほうがいいだろう。落合は自身のセカンド守備について率直に語る。「難しいですね。僕にはできないです、はっきり言って。12球団で一番下手なんじゃないですか」と言い、「自分の守備範囲に来た球だけはしっかり捕るしかない」と話していた。

 開幕から「七番・セカンド」でスタート。その後、六番となり、「恐怖の六番」と言われた時期もある。7月22日には初の四番にも座って4打数2安打。打率.340で打率トップに立った。さらに、初出場のオールスターでも全パの西本幸雄監督(近鉄)に指名され、第2戦ではパの四番を務めた。

 以後、打率トップをキープしたが、9月3日、故障欠場中の日本ハム島田誠に抜かれ、その後、巻き返したが、今度は9日、西武の新人・石毛宏典に抜かれ、3人のデッドヒートになった。ただ、初タイトルについて、いくら尋ねてもそっけない。

「自分がゲームでヒットを打てばいい。数字は勝手に動き回るだけ。自分の持ち味をキープしていけば、無欲の勝利が転がり込んでくるかもしれませんが」

 最終的に.326で首位打者。カゼなどで欠場の3試合を除き、127試合に出てのタイトルだった。なお、四番は10試合で打率.406だ。

右方向へ安打が多い理由


 安打方向を見ると、やはりライト方向が60安打(14本塁打)、センター方向が23安打(0本塁打)、レフト方向が49安打(19本塁打)と、右方向が目立つ。のちのち川崎球場がライト方向にホームランが出やすく右打ちを磨いたと言われるが、このときの話は少し違う。

「僕は普通の人から比べたら腰の位置が左のほうが高い。体のつくりからいってそうなっているらしい。だから、もし僕が左だったら、上からパチーンとたたき切るようなバッティングになるはずです。でも右だと、たたこうにもたたけない。腰の向きもちょうど右中間方向に向いているらしいんです。プロ入り前にある人に、(打球が)右に行くときはいいけど、左に行くときは気をつけなさいと言われたんです」

 開幕前に公言したノルマは1カ月5本塁打。これは2試合しかなかった10月以外はすべてクリアし、うち7月が6本、8月が7本だった。

 初の規定打席到達での首位打者。ただし、これは“落合伝説”の序章に過ぎない。

写真=BBM
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