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史上最高のストレートの使い手。戦力外寸前から上り詰めた藤川球児の野球人生

 

コーチのアドバイスで変わった運命



 藤川球児は史上最高のストレートの使い手と言えるだろう。最速は156キロ。スピードガンのデータならデータなら、もっと速い球を投げたピッチャーはいくらでもいる。問題は、その質だ。ストレートを待っている打者が分かっていても打てない。しかも、それをこれだけの制球力で、これだけの長い期間、投げ続けた例は皆無だ。

 父が草野球でノーヒットノーランをした翌日に生まれ、「球児」と名付けられた。小さいころはぜんそく持ちで、体も強いほうではなかったという。のちに横浜高から西武入りした松坂大輔と同じ学年で、“松坂世代”と言われる一人だ。小2では柔道をしていたが、受けみばかりさせられるのが嫌で小3から1歳上の兄・順一と一緒に野球チームに入った。兄は藤川にとって、常に目標であり、最大の理解者でもあった。

 高知商高2年時には2回戦で敗れたが、3年の順一とともに甲子園出場も果たし、バッテリーも組んでいる。3年時の甲子園出場はなかったが、ドラフト1位で1999年阪神入り。ただ、当時は松坂、さらに大体大から巨人入りした上原浩治が話題をさらい、藤川の扱いは決して大きくない。女優・広末涼子さんと中学の同級生という話題のほうが、目立つ程度だった。

1998年のドラフトで阪神から1位指名された


 実際、1年目、松坂は16勝で新人王。藤川は一軍登板すらなかった。悔しさはあったが「人は持って生まれた資質と成長ホルモンの関係で、成長のスピードが違う」と割り切っていた。翌2000年は開幕戦(横浜)で一軍初登板も定着はできず、01年はコーチとの確執もあって、一軍登板すらなかった。当時はストレートが145キロ前後。器用で変化球の球種も多く、「特徴のない、普通の投手だった」と振り返る。

 星野仙一監督が就任した02年に、背番号を名前にちなんで「92」に変えた。故障もあって開幕は二軍スタートながら夏場に昇格。先発投手としてもチャンスをもらったが、1勝5敗と結果を残せず、03年のVイヤーも1勝。本人は知らなかったが、オフには戦力外リストにも入ってしまったという。このときはコーチから一軍に昇格したばかりの岡田彰布監督の判断で、残留となった。

 04年も当初はパッとしなかったが、二軍調整中に出会った山口高志コーチのアドバイスが運命を変える。「そのフォームでは故障する。上から投げ下ろすように、たたきつけるように投げろ」という指導だった。山口自身、現役時代、阪急で史上最速とも言われたストレートを投げた男だ。肩の手術から復帰したばかりの先輩・福原忍の「オレも山口さんの言うとおりにやったら、肩が楽になった」という言葉もあってやってみると、球速が一気に上がり、後半はリリーフとして一軍定着を果たす。

「JFK」の一員として


鉄壁のリリーフを誇った「JFK」(左から久保田、藤川、ウィリアムス)


 背番号を22に変えた05年は「20、30球なら素晴らしい球を投げる」という岡田監督の判断もあり、セットアッパーに固定。同級生で、抑えの右腕・久保田智之、さらに左腕のセットアッパー、ジェフ・ウィリアムスとともに投げまくり、3人の頭文字を取って「JFK」とも言われた。球宴にも中継ぎ部門のファン投票1位で出場。当時のシーズン日本記録80試合に投げ、優勝に貢献。最優秀中継ぎ投手にもなっている。

 06年には開幕前に第1回WBC代表にも選ばれ、第2ラウンドのアメリカ戦でサヨナラ打を浴びる屈辱もあったが、メジャーのトップ選手との対決に刺激を受け、「いつかメジャーで投げてみたい」という明確な夢も生まれた。

 シーズンに入ると、まさに快刀乱麻だ。38試合連続、47回2/3連続無失点を記録し、防御率0.68。ふたたび最優秀中継ぎ投手賞に輝く。ストレートで攻めまくり、三振の山を築いたオールスターも話題となった。

 07年から抑えに転向し、さらにすごみを増す。後半、やや打ち込まれた試合もあったが、05年の中日岩瀬仁紀と並ぶ46セーブの史上最多記録をマーク。オフの契約更改では球団にメジャー志望の意思を伝え、ポスティング行使を希望し、拒否されている。このとき「タイガースを優勝させたい。結果が出なければやめます」と宣言。自分を追い込んだ。さらに終盤の失速を反省し、専属トレーナーとも契約。フロリダのタンパで肉体改造にも取り組んでいる。

 その年、ほぼ完ぺきなピッチングで、防御率0.67。ただ、チームは優勝目前から巨人に大逆転負け。CS第1ステージ第3戦では、中日のT.ウッズに決勝弾を浴び、敗退もあった。メジャーの夢は封印し、あらためて優勝に目標を絞った。

 09年に向け、先発を志願。しかし、新監督の真弓明信との直接の話し合いで「お前がクローザーにいなかったときを考えるとゾッとする」と言われ、気持ちを切り替え、クローザーで行くことを決めた。

 以後も虎の守護神として安定した活躍を見せ、セットアッパーに定着した05年以降、10年の2.01以外、防御率はすべて1点台以下。三振はすべてイニングをはるかに超え、05年から先発の先発なしでの3年連続115奪三振以上も光る。

 12年オフ、FAでMLBカブスに移籍、15年はレンジャーズでプレー。しかし、5月に自由契約となると四国ILの高知へ。金本知憲監督が就任した16年、阪神に復帰すると昨年まで43、52、53、56試合と登板数を重ねた。今季はクローザーとして開幕を迎えるも6月25日のヤクルト戦(神宮)で、まさかのサヨナラ本塁打を浴びた。その後も調子は上がらず、7月12日に登録抹消され、二軍で調整。同23日に一軍に再昇格するも8月13日に再び二軍へ。そして、8月31日、今季限りでユニフォームを脱ぐことが発表された。

写真=BBM
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