一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 ストレートの衰えから成績低迷
左が水原監督、右が尾崎
今回は『1971年12月27日号』。定価は90円。
怪童と言われた東映の
尾崎行雄が球団に退団を申し出た。
浪商高を中退し、1962年、17歳でプロ入り。いきなり20勝を挙げて優勝に貢献。肩痛で2年目は7勝も、64年からは3年連続20勝以上をマークしていた。
しかし、68年から4年間、勝ち星なし。この71年も0勝3敗。
本人は「まだ若いから(27歳)来年にかけてみたい」と言っていたが、11月24日、球団から、
「契約する意思はあるが、しばらくバッティング投手をやってもらい、チャンスがあれば一軍で投げてもらう」
と言われた。対して尾崎は、
「僕は選手だ。僕にもプライドがあります。ファンの人たちと相談しても、そこまで落ちてくれるなと言われました」
と12月6日、球団事務所を訪れ、退団を申し出た。
球団も一度は「本人からの申し出とあっては認めざるを得ない」となったが、
田宮謙次郎監督の説得で引退を撤回した。
ちなみに引退したら球界から離れ、「レストランをやってみたい」と話していた。
水原茂の手記連載にも尾崎の話があった。水原監督は東映監督時代、自ら浪商の尾崎獲得に動いた。当時の尾崎について、
「土橋(正幸)はまだ速かったが、この土橋より速い。それと自然に曲がるいわゆるナチュラルスライダーがよかった」
と振り返っている。
また、68年からの低迷については、
「生活の乱れもあった。ピッチングについては、持ち前のスピードがなくなってきたからで、それならカーブや
シュートでかわす、ということができればいいのだが、尾崎にはそれができなかった。小細工ができないピッチャーだ」
と分析。さらに尾崎の泣き所は投手としては小さい手と指の短さか、とも言っている。
この号で1971年編は終了、次回からは72年に入る。週べの通巻は730号となった。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM