歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 1勝の差で最多勝に届かなかったが
実力を発揮できずにいた阪急の
今井雄太郎に1杯のビールを勧め、その覚醒を呼び込んだ梶本隆夫コーチ。指導者に転じて5年目のことだ。選手としては余力があった。晩年に習得したナックルが、掌が大きいことで面白いように変化し、「これなら50歳まで投げられるのではないか」とさえ思っていた。だが、就任が決まったばかりの
上田利治監督に「コーチになって助けてくれ」と言われて、引退。阪急ひと筋20年目、38歳だった。
梶本が過ごした20年間は、阪急の歴史を象徴するかのような年月でもある。優勝とは無縁で、“灰色”と言われた時代から、
西本幸雄監督から上田監督へとリレーした黄金時代。同じく阪急ひと筋で、黄金時代を象徴する選手なら、投手では
足立光宏や
山田久志、打者では
長池徳二や
福本豊がいるが、どん底から頂点への長い道のりを象徴する選手でいえば、この梶本にトドメを刺す。
入団は1954年。あこがれは同じ左腕で国鉄の
金田正一だった。甲子園には出場していないが、地区大会で完全試合を含むノーヒットノーラン3度。金田が身長184センチ、梶本は186センチで、武器も同じ快速球だったこともあり、“金田2世”の名声は全国にとどろき、3球団から誘われる。契約金は
巨人が200万円、地元の岐阜県に近い
中日が100万円、そして阪急が50万円だった。父親を早くに亡くし、母親に女手ひとつで育てられた梶本。家計も楽ではなかったはずだが、その母親に「高いお金をいただいてダメだったら申し訳ない。一番、安いところに行きなさい」と言われたことで、阪急を選んでいる。
迎えた54年、いきなり開幕投手となって完投勝利。球宴にもファン投票1位で選出され、実際には月給2万円だったというが、スポーツ紙は「5000円エース誕生」と書き立てた。これで、「球団があせったのか、8月から倍になった」と梶本は笑う。この1年目は最終的に20勝。ただ、同じく新人の
宅和本司が黄金時代の南海で最多勝、最優秀防御率の活躍を見せたことで新人王には届いていない。シーズン20勝を挙げながら新人王になっていないのは梶本だけだ。
以降9年連続2ケタ勝利も、4度は負け越している。味方の拙攻や拙守で敗れた試合も少なくないが、一度も愚痴や文句を言ったことはない。56年には自己最多の28勝も、最多勝は29勝を挙げた大映の
三浦方義。首脳陣から「リリーフで稼げ」と言われても、「人の勝ちは取りたくない」と断った。その後もタイトルとは無縁。無欲なこともあるが、勝敗よりも内容にこだわり、いかに自分が納得できるかということのほうが、この左腕には重要だった。
復活とリンクした初優勝
63年から66年までは低迷。泥沼の15連敗もあった。57年には9者連続で三振を奪うなど、快速球で三振の山を築くスタイルだったが、1人3球の投球から1イニング3球、打たせて取る投球にモデルチェンジ。そして67年、5年ぶり2ケタ15勝で、悲願の初優勝に貢献した。阪急がリーグ3連覇を成し遂げた69年には18勝。これが最後の2ケタ勝利に。翌70年に失速すると阪急もV逸。その翌71年には6勝ながら規定投球回に到達する粘りのピッチングで、王座奪還を支えている。
73年オフに引退。20年間で通算254勝255敗と、わずか1敗の負け越しで、現役を続けていれば勝ち越しに転じた可能性も高かったはずだ。結局、名球会の投手では唯一の負け越しになったが、これはタイトルに無欲で、“灰色”から黄金時代へと引き上げた男の、最高の勲章だろう。
ふだんは穏やかで、笑顔を浮かべていることが多かった。カラオケが好きで、いつも明るく歌っているのだが、唱歌の『故郷』で三番に入ると、必ず涙ぐんだという。21世紀の現在、カラオケで『故郷』を歌う人も少ないだろう。プロ野球に話を戻しても、芽が出ずに苦しんでいる投手に、しかも登板に前に酒を勧めるエピソードも聞こえてこない。20世紀、昭和の昔ならではなのかもしれない。梶本の魅力が象徴するものは、阪急の歴史だけではないような気もする。
文=犬企画マンホール 写真=BBM