週刊ベースボールONLINE

プロ野球20世紀・不屈の物語

巨人の原風景、近鉄のエポック…元祖“無冠の帝王”、巨人の“猛牛”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1938〜61年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

二重契約の第1号?



 阪神藤川球児が引退を発表した。西武で現役を続けている松坂大輔を筆頭とする“松坂世代”の藤川だが、プロ野球で最初に騒がれた黄金世代は1938年、昭和13年にさかのぼる。特定の選手を旗手にすることがはばかられたのか、あるいは誰かを筆頭に置けないほど個々の実力が拮抗していたのか。彼らは“花の13年組”と呼ばれた。

 この連載でも、巨人の川上哲治吉原正喜のバッテリーについては詳しく紹介している。川上は一塁手に転向して“打撃の神様”と称されたが、そんな川上と一、二塁間を形成した千葉茂も、その一角だ。“神様”の守備に対して「員数外」と言い放てるのも同期ならでは。いや、たとえ川上が先輩でも、それくらいのことは言ったかもしれない。異名は“猛牛”。闘志むき出しの荒々しいプレーに緻密さを潜ませた攻守走の名手だった。

 松山商では35年に夏の甲子園を制覇。実は先輩の森茂雄監督が率いるイーグルスと仮契約を結んでいたが、巨人の藤本定義監督も同じく先輩で、後から誘ってきたが「仮だと思って契約しちゃって。二重契約の第1号だな」(千葉)。ドラフト制度の導入からは激減したが、それ以前は複数の球団が有力な選手の争奪戦を展開すると、さまざまな行き違いなどから1選手が2球団と契約してしまう、いわゆる二重契約が多かったのだ。千葉の場合は、森と藤本に身柄を預けることで解決。まだプロ野球そのものが未成熟であり、二重契約も“顔役”2人で解決できてしまうような時代でもあった。

 こうして巨人へ入団することになった千葉は1年目から二塁のレギュラーに定着。世代の旗手といえる存在は、まだ投手だった川上ではなく、吉原、そして千葉だった。打順は三番。戦後のプロ野球を監督として引っ張った水原茂三原修もチームメートだったが、打順は「一番が三原さん、二番が水原さんで、雲の上の人。どちらかが塁に出ると、ただただ併殺が怖く、なんとか進塁させなければと焦りまくり」(千葉)だったという。そこで磨いたのが名人芸ともいわれた右打ちだった。

 38年までは春季、秋季の2シーズン制だったが、春はチーム40試合のうち34試合に出場。新人王に輝いても不思議ではない活躍だったが、新人王にはなっていない。なぜなら、まだタイトルが制定されていなかったから。その後も最後まで第一線で活躍した千葉だったが、表彰はベストナインのみで、“無冠の帝王”という異名も取っている。

「ホームランなんか面白くない」


 戦後プロ野球のホームラン・ブームについても何度か触れてきている。この潮流に対して真っ先に背を向けたのも千葉だった。「ホームランなんか出会い頭で面白くない。投手と駆け引きして四球を選んだときのほうが、うれしかったな。イヤな球は、とことんファウルにした。変化球系の投手なら1日中でもファウルを続ける自信があったよ」(千葉)。戦後の巨人にとって初優勝となった49年は一時は首位打者にも迫って大きく貢献、MVP候補といわれたが、MVPは本塁打王、打点王の打撃2冠となった阪神の藤村富美男に。ただ、阪神は8チーム中6位で、下位チームからの受賞は異例のことだった。

 2リーグ制となった50年には105四球でプロ野球新記録。以降3年連続の“四球王”だ。このころからサインが出されて犠打が増えているが、「ライト打ちができるんだから、もったいない」と思いながらも、2ストライクまでバントをせず、わざとスリーバントで決めてファンを沸かせるようなこともあった。二塁守備でも、「ワシは一、二塁手のようなもんだ」(千葉)と言いながら、派手なプレーで観客を魅了した。56年オフに引退。最後の背番号は3番で、これを58年に入団した長嶋茂雄に譲っている。

 59年には近鉄の監督に就任。3年で退任したが、千葉の就任を契機に、近鉄は愛称を「パールス」から千葉の異名から「バファロー」に改め、やがて「バファローズ」として歴史をつないでいる。その後は解説者として活躍。こうして古いプロ野球について語り継ぐことができているのも、その多くは千葉のおかげだ。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング