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プロ野球20世紀・不屈の物語

「エリートに負けたくない」“雑草魂”上原浩治の“発展的挫折”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1998〜99年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

1年間の浪人が呼んだプロ野球への道



 21世紀に巨人からメジャーへ、そして巨人で現役を引退した上原浩治が紡いだ不屈の物語は、圧倒的に21世紀のほうが長い。入団は1999年で、プロ野球選手としての20世紀は2年だけなのだから当然といえば当然なのだが、特に巨人へ復帰してから、43歳でセットアッパーとしてマウンドに立つ姿に励まされた同世代のファンは少なくない気がする。

 ひと晩の睡眠だけでは疲労が回復しないことが明らかに増え、すぐに満腹となり、階段を避けることも増え、読める文字のサイズは確実に大きくなり、安全な場所で蹴つまずくことも増えた、そんな年代だ。もちろん老化は徐々に進んでいるのだろうが、それに気づき、身に染みてくる年代でもある。勝負は度外視して、上原が投げているだけで小さな奮起につながる、そんな同年代もいたはずだ。同時に、多くの人は泣いても笑ってもエリートコースにいない。20世紀、特にプロ入り前の上原を知る同年代なら、それぞれの不屈を投影しやすい存在でもあっただろう。

 巨人で選んだ背番号は19番。19歳のときを忘れないためだという。東海大仰星高では控え投手で、体育の教師を目指して大体大を受験するも、不合格。浪人として過ごしたのが19歳だった。最近は大学受験で浪人することも少なくなったようだが、上原の世代を含む3世代は人数が多く、すぐ上の世代も浪人して競争相手になっていて、少ないながらも倍率が3ケタという試験もあった。大学は近年に比べて、はるかに狭き門だったのだ。ただ、この1年の浪人が上原の人生を変える。この点も多くの同世代が共感できるだろう。

 上原の場合は、勉強に加え、体も鍛えておいたほうがいいとアドバイスされたこともあり、ジムでトレーニングしながら、体のメカニズムも学んだという。やや手前味噌になるが、小社刊の『ノーラン・ライアンのピッチャーズ・バイブル』も、むさぼるように読んだ。それなりに2浪、3浪もいたような時代だったが、上原は1浪で大体大へ。1年間、ほとんど野球はしていなかったにもかかわらず、野球部へ入ると別人のように進化していた。

 1年生の春からエース格となり、3年生の97年には日米大学野球でゲーム14奪三振の好投を見せて、インターコンチネンタルカップでは国際大会151連勝中のキューバを決勝で破って世界一に貢献する。この試合で四番打者として5打点をマークしたのが、生年月日が同じで、のちに巨人でチームメートとなる慶大の高橋由伸だった。もう目標は体育の教師ではない。新たに掲げた夢はメジャーでのプレー。実際、国際大会での活躍にメジャー球団も興味を示していた。だが、上原は夢への回り道を選ぶ。

新人記録の15連勝を含む20勝


 98年のドラフトで、最大の目玉は横浜高のエースで、春夏連続で甲子園を制した“平成の怪物”松坂大輔西武)だった。そのドラフトで、上原は巨人を逆指名。1位で入団を決めると、「メジャーは、ひとまず夢として置いておきます。いまは巨人で頑張りたい。エリートには負けたくないんで」と語っている。この言葉に多くの人は松坂を連想したが、すでに巨人の主軸となっていた高橋と、上原と同い年ながら高橋と同学年で、やはり中日で新人王になっていた投手の川上憲伸のことだったという。よく使っていた言葉は“雑草魂”。自主トレ初日に目標を訊かれると、は「“雑草魂”で流行語大賞を狙います(笑)」と答えている。

 だが、迎えた1年目の99年。いい意味で上原は期待を裏切っていく。大学時代の投球スタイルからマイナーチェンジ。スライダーを減らし、ナックルも封印、緻密に制球されたフォークを新たな武器にして、ひたすら勝ち進んでいった。5月30日からの新人記録15連勝を含む20勝に179奪三振、防御率2.09で投手3冠、新人王に加え、沢村賞にも。この連載でも少し触れているが、ベンチからの敬遠の指示にマウンドを蹴り飛ばし、涙を流して悔しがった場面も見られた。

 なにかと注目を集めた松坂もパ・リーグの新人王だったが、数字では上原に軍配。ちなみに、流行語大賞でも松坂の「リベンジ」と並んで有言実行を果たしている。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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