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プロ野球20世紀・不屈の物語

ゲンちゃん、任意引退で失意の失踪…その理由は/プロ野球20世紀・不屈の物語【1990年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

任意引退って何?



 任意引退から復活を遂げたヤクルト荒木大輔については紹介したばかりだ。そもそも、任意引退や自由契約などという言葉は、日本語であることは分かるものの、これから難しい言葉を覚えていこうという少年少女や、日本語を学んでいる外国人らを大いにとまどわせるものだろう。任意引退は野球協約の59条に定められているものだが、一般の法律などと同様に、一読した途端に意味が分かるような内容ではない。

 プロ野球の世界に限らず、こうした言語明瞭意味不明といった言葉は少なくない。ただ、「自由」のようなポジティブな意味の単語を含む言葉の裏側にはネガティブな内実が潜み、「引退」のようなネガティブな印象のある言葉は実際には大してネガティブではないという傾向はある気がする。自由契約の実際は解雇であることが多い一方で、任意引退は現役引退ではないことが少なくない。任意引退の扱いであれば故障の治療に専念していても所属していた球団での復帰は可能だ。だが、これが引退に追い込まれた選手が他のチームへ移籍して現役を続行するためのハードルになる場合もある。いずれにしても、誤解がつきものであると言えよう。

 荒木が任意引退の扱いとなって治療に向き合った1990年。同じ任意引退で、クビと勘違いしてしてしまったのが、日本ハムの河野博文だった。ドラフト1位で85年に入団して新人王を争った左腕。風貌が原人に似ていると“ゲンちゃん”と呼ばれて親しまれ、その野性的な風貌に抜群のスタミナ、思い切りのいいピッチングで先発、救援に投げまくり、88年には防御率2.38で最優秀防御率にも輝いたが、90年5月に左アキレス腱を断裂してしまう。これで1年間、リハビリに専念できるように任意引退となったのだが、それを聞いた河野は忽然と姿を消した。行方不明になってしまったのだ。

 かつて東急の大下弘が移籍を志願して姿を消したことは紹介したが、少なくとも大下の場合のように、球界の関係者から政財界の大物までもが暗躍する事件ではない。一方で、日本ハム元年の74年には来日1年目のバール・スノーが失踪して「雪のように消えた」と表現されたこともあったが(スペルは異なる)、このときのようにキナ臭い話でもない。誤解で行方不明となったのは前代未聞のこと。河野の安否が確認された(?)のは8月だった。

最優秀中継ぎ投手って何?


巨人時代の河野博文


 球団の事務所に姿を見せた河野は、もう野球ができなくなるという思いから何もかもを放り出して知人の家に身を寄せていたのだという。この一連の騒動で減俸400万円のペナルティーが課せられてしまったが、翌91年にはセットアッパーとして再始動。93年からは先発の一角となり、その翌94年から2年連続で規定投球回に到達するなど完全に復活を遂げた。

 ちなみに、河野は95年オフにFAで巨人へ。移籍1年目となった96年には春先に二軍へ落されたが、5月に一軍へ舞い戻ると、阿波野秀幸川口和久ら同じ移籍組の左腕とリリーフ陣を形成して、8月には14試合に登板して4勝1セーブ、防御率1.86で月間MVP。「メークドラマ」(長嶋茂雄監督)の逆転優勝に貢献して、2度目のタイトルとなる最優秀中継ぎ投手に輝いた。

 ただ、ここにも誤解の種がある。この96年に新設されたセ・リーグの最優秀中継ぎ投手で初代となったわけだが、これは現在のものとは基準が異なるものだ。現在はホールドポイントを算出して表彰しているが、当時はリリーフポイント。これはセーブのついていないリリーフ投手すべてに7項目の基準に沿ってプラス、マイナスのポイントを与え、それを集計して一番ポイントの高い投手を表彰するものだった。日本語も難しいが、数字もまた難しい。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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