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プロ野球20世紀・不屈の物語

胸膜炎で任意引退……巨人で「一度、死んだ男」とは/プロ野球20世紀・不屈の物語【1984〜85年】

 

歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。

「ツキのない男だと思っていた」



 任意引退を経て、一度グラウンドから離れることで専念するはヤクルト荒木大輔日本ハム河野博文のようなケガだけではない。病気の治療に専念するために任意引退となったのが、1984年、巨人の岡崎郁だった。病名は胸膜炎。発覚したのは自主トレの初日だった。動くと右ワキ腹に激痛が走り、深い呼吸をすることもできない。胸部のレントゲンを撮ると、肺の右下が写っていなかった。医師からは、もう少し心臓に近い場所なら死んでいた、と言われたという。これで任意引退。練習生の立場になったが、とても練習ができる状態ではない。岡崎は故郷の大分へ戻って療養、そしてリハビリに専念することになった。

 大分商高では投手と遊撃手を兼ね、3年時には春夏連続で甲子園に出場、法大へ進むことを希望していたが、ドラフト3位で巨人が強行指名。一度は電話で断りを入れた。だが、長嶋茂雄監督が実家をサプライズ訪問。ただ、「(長嶋監督は)来る(巨人へ入団する)のが前提で、岡崎はキャンプから来てもらえればいいかな、って(笑)」(岡崎)と、80年に入団した。3年目の82年に初めて一軍を経験。翌83年には打席にも立った。いよいよこれから、という矢先の病魔、そして任意引退という悲運。それでも岡崎は、夏場には練習に復帰する。一軍の試合に出場したといっても、通算2試合のみ。年齢も23歳と、まだまだ若い。このまま終わるわけにはいかなかったのだ。迎えた85年はキャンプから一軍に定着する。

「ツキのない男だと思っていたけど、病気を境にツキが回ってきたのかもしれない」(岡崎)と振り返る。努力が報われるとは限らないのが運命の残酷さで、しかも実績に乏しかった当時の岡崎にとって、復帰するための努力は精神的にも重いものだったことは想像に難くない。そんな岡崎に、運命の女神はほほえもうとしているように見えた。

 岡崎にとって忘れられない1日となったのが、この85年の3月8日だ。巨人は日本ハムとのオープン戦で、球場は大分県営球場。言うまでもなく、岡崎の地元だ。療養を支えた両親や友人たちも球場へ足を運ぶ。これ以上ない形で復活の舞台は整った。ここに岡崎の出番がないはずもない。そして岡崎は、やはり最高の形で、復活、そして感謝の号砲を打ち鳴らした。

「これからも思い切っていきます」


岡崎郁のバッティング


 単打でも復活の舞台としては上出来といえた。適時打、あるいは本塁打なら出来過ぎなくらいだったろう。凡打でも問題ない。オープン戦とはいえ、ふたたびグラウンドに立っていること自体が奇跡だったのだから。だが、岡崎はサヨナラ本塁打。ただグラウンドへ戻ってきたということだけではなく、自らの前途が明るいことをも印象づけた一発に、「僕は一度、死んだ人間。これからも思い切っていきます」(岡崎)と語っている。

 当時の巨人は、一塁に中畑清、二塁に篠塚利夫、三塁に原辰徳がいて、それぞれが全盛期を迎えていた。三塁手の原が入団したことで、中畑が三塁を譲らず、篠塚が控えに回り、原が二塁の練習をしたことがあったが、このとき唯一、自らの牙城から動かなかったのが遊撃の河埜和正。だが、迎えたペナントレースで失策により自信を喪失、そのバックアップとして岡崎は出場機会を増やしていく。

 河埜の引退で、遊撃の定位置は岡崎や川相昌弘ら若手の“戦場”となった。かつては中畑の故障で篠塚と原が本職に戻り、中畑が一塁に回ったことでポジション争いが落着したが、このときも中畑の故障で内野の布陣が固まる。89年に正遊撃手となってゴールデン・グラブ賞に輝いたのが川相。三塁守備もこなしたことで初めて規定打席に到達したのが岡崎だった。

文=犬企画マンホール 写真=BBM
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