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パンチ佐藤の漢の背中!

甲子園で特大本塁打を放った瀬間仲ノルベルト。現在はブラジル料理店オーナー/パンチ佐藤の漢の背中!

 

甲子園でホームランを打ち、中日に入団。一軍公式戦出場は叶わなかったが、名前を覚えているファンは多いのではないか。ブラジル出身の瀬間仲ノルベルトさんは現在、ブラジル人が多く住む群馬県大泉町で、一番大きいブラジル料理店のオーナーを務めている。「外国」でセカンドキャリアを積む瀬間仲さんを、パンチさんが訪ねた。
※『ベースボールマガジン』2020年5月号より転載

国技・サッカーより野球に魅せられた


パンチ佐藤氏(左)、瀬間仲ノルベルト氏


 宮崎代表・日章学園高の四番打者として、第84回(2002年)全国高校野球選手権大会に出場した瀬間仲さん。初戦(2回戦)の興誠(静岡代表)戦、8回裏に放った同点2ランは、打った瞬間それと分かる、豪快な当たりだった。

「あのときは、僕も見ていて度肝を抜かれました」というパンチさんが群馬のブラジリアンタウン・大泉に、瀬間仲さんを訪ねた。

パンチ 瀬間仲君はブラジル出身でしょう。ブラジルといえば、サッカーがNo.1スポーツ。なぜ野球をやろうと思ったんですか。

瀬間仲 僕の父も野球をやっていて、自分では覚えていないんですけど、ものすごく小さいころに練習試合を見に連れて行ってもらったんです。そこで初めて野球を見て、ずっと自分もやりたい、やりたいとうるさいぐらいに言っていたそうです。サッカーは正直、あまり興味がなかったですね。

パンチ 地元に少年野球チームがあったんだ?

瀬間仲 サッカーはブラジルの国技ですが、野球は日系移民がブラジルに持ってきたスポーツだったんです。だから野球人口も少なくて、日本のように学校ごとにチームはなく1つの町に1チーム、という感じ。僕はトゥパンという町のチームの一員でした。

パンチ なぜ野球だったんだろう。

瀬間仲 野球はサッカーや他のスポーツに比べると、マナーなどちょっと厳しかったんです。悪い言葉を使ってはいけない、とか。サッカーはそれがなくて、試合中でも平気で「お前、このやろー!」(笑)。自分はそういうところがあまり合いませんでした。

パンチ その地元のチームから、ヤクルトのアカデミーに入ったんだ。

瀬間仲 日本に来る前の1カ月間、アカデミーで練習しなさいと集められました。でも、プロに入ったらなぜか「アカデミー卒業生」という経歴だけが書かれて、前に所属していたチームの名前が出なくなって……。

パンチ 何か大人の事情が働いたのかなあ。前のチームとしては、面白くないよね。

瀬間仲 地元のチームがなくなったため、サンパウロのチームに入れてもらっていたんです。アパートを寮として借りてくれて、無償で野球をやらせていただきました。本当にお世話になったので、申し訳なかったですね。一時はそのチームとの関係も悪くなってしまいました。

パンチ それは残念だね。今は分かってくれているの?

瀬間仲 自分が直接行って、説明しました。信じてもらえるかもらえないかは、向こうの判断ですね。

パンチ 本当のことは、最後にはちゃんと分かるものだよ。宮崎の日章学園にはどんな縁で入学したの?

瀬間仲 ブラジル代表として日本で開かれた大会に出場したとき、日章学園の関係者が見て、魅力を感じたそうで、誘っていただきました。

パンチ 甲子園を目指すのはもちろんだけど、そのころからプロ野球を目指していたんですか?

瀬間仲 はい、小さいころからの夢でした。それに道具も輸入物しかないので、ブラジルで野球をやるにはお金がかかるんです。両親が経済的に頑張って、自分のやりたいこともやらないで応援してくれたおかげで、ずっと野球を続けることができました。だからプロ野球選手になるのは自分の夢だけでなく、家族の夢でもありました。

パンチ プロに行くためには、高校でどこを鍛えなきゃいけないと思った?

瀬間仲 体を鍛えることと、バッティングですね。当時、自分の頭の中ではバッティングでアピールしなければチャンスはないかなと思っていました。

寺原隼人から3安打で日米スカウトが注目!


2002年夏の甲子園2回戦、日章学園高の四番・瀬間仲は8回に同点に追いつく特大2ラン本塁打


パンチ 初めてプロのスカウトが見に来たのはいつごろだったんだろう。

瀬間仲 2年生のとき、同じ宮崎・日南学園の当時3年の寺原隼人さん(元ダイエーほか)から1試合3安打したんです。そのとき寺原さんを見に日米のスカウトが来ていて、初めて僕も注目されたと聞いています。シアトル・マリナーズからもスカウトが来たそうです。

パンチ チャンスだと思った?

瀬間仲 はい。そのために両親と離れて、まったく言葉も通じない、友達もいない世界の反対側に来たわけですから。絶対プロに行くんだと思いました。

パンチ ちょっと待って、初めは日本語が分からなかったの? 向こうではしゃべっていなかったの?

瀬間仲 ウチは母が日系で、父はイタリア系ブラジル人なんです。だから家ではポルトガル語しか話していなくて、日本語は日本に来てから覚えました。

パンチ そして中日ドラゴンズに指名されたわけだ。うれしかったでしょう。プロでまず感じたことはなんだった?

瀬間仲 一軍の選手の練習を見て、やはりすごいなと思いましたね。アレックス・オチョアとか外国人選手はもちろん、日本人の選手も体つきが高校生とは一回り違いました。自分より小柄な選手でも、球のとらえ方がまったく違う。パワーが違うんです。そこで自分はプロに来たんだな、とあらためて感じました。でもこの世界は結果がすべて。やるしかない、と思いました。

パンチ 中日ではいい出会いがあった? 尊敬できる人、カッコいいなと思う先輩は?

瀬間仲 自分とポジションは違いますが、話をさせてもらって勉強になったのは、当時のエースの川上憲伸さんですね。ピッチャーからの視点で、野球に対する見方を教えていただきました。

パンチ 例えばどんな話が印象に残っている?

瀬間仲 ピッチャーはバッターのタイミングを外そうとしながら投げますよね。バッターはそれに対して反応しなければいけないんですが、そのとき、ピッチャーの術にハマってはいけないというか。ピッチャーがタイミングを外そうとする動きにこちらが合わせるのではなく、自分が主体になってその勝負をリードしなければいけないよ、と。

パンチ どんなときも自分の間、自分のタイミングを守れということだね。

瀬間仲 自分が時間を支配しろ、という感じですね。それが一番印象に残っています。川上さんに限らず一軍でバリバリやっている選手は考え方も、野球に対しての見方もまったく違うなと思いました。

2002年秋のドラフ7巡目指名で中日に入団(瀬間仲は後列右端)。当時は山田久志監督(中央)だった


パンチ 3年間やったんだね。一番の思い出はなんだろう。

瀬間仲 大きな思い出はないですね。2年目にヒザをケガして、それが大きなネックになってしまいました。

パンチ 戦力外を告げられたときは、どんな気持ちでしたか?

瀬間仲 まず「これからどうしよう」と思いました。僕、勉強があまり得意じゃなかったんです。将来プロ野球選手になるなら、勉強はいらないやと思っていましたから(苦笑)。

パンチ 俺も同じだよ。算数も足し算、引き算しかできないから(笑)。

瀬間仲 だから、2年間仕事をしながら、トライアウトを受けました。2回目に受からなかったらあきらめるつもりで、きっぱり野球をやめました。

 群馬県邑楽郡大泉町。東京から車で2時間ほどの場所に、瀬間仲さんはブラジル料理店『カミナルア』を開いた。テラス席を含めた1階部分だけで、100席。2階を開放すれば、200席という広い店だ。

 看板メニューは肉料理。ほかにもフェジョン、パステル、コシーニャからスイーツなど、本場のブラジル料理が味わえる。近隣在住のブラジル人にも日本人にも人気上昇中。パンチさんとの対談後半は、名古屋から群馬へ。そして、レストラン開店までの道のりをたどる。

日本で成功することが恩返しだと思った


パンチ 野球をあきらめたとき、名古屋に残るか、東京か宮崎に行くか、ブラジルに帰るか、いろいろ考えた?

瀬間仲 ブラジルに帰っても、日本と比べて経済的に大変だなと思いました。それに、そこまで日章学園や当時の監督さん、いろんな方々が自分の夢を叶えるために応援してくださり、とてもお世話になってきたので、日本の中で、野球以外のことで成功したい気持ちが強くありました。だから、ブラジルに帰ることは考えませんでした。

パンチ 両親に会えなくても、日本で勝負するんだっていう気持ちに迷いはなかったんだ?

瀬間仲 はい、そこは迷いがなかったです。でも両親は僕がクビになったとき、ものすごく心配して、姉を日本に送り出してくれました。

パンチ きょうだいは何人いるの? 

瀬間仲 姉が一番上で、真ん中の兄、そして自分です。姉はブラジルにいたときから語学学校で英語を教えていたんです。同じ語学学校が名古屋と豊橋にあって、たまたま豊橋に講師の空きがあったので、そこで仕事をして、僕と一緒に住んでくれました。

パンチ お姉ちゃんが来てくれたのは、心強かったね。

瀬間仲 最高でした。料理も作ってくれたし、やはりなんといっても一人じゃないのが良かったです。姉がいたのといなかったとでは、まったく違ったと思います。それから姉の学校で日本語の先生に欠員ができたと聞いて、自分も日本に来たとき話せなかった経験があるし、誰かのためになればと思って、その学校で教えることになりました。

パンチ そうだったんだ。そこからどういう縁で、群馬に来たの?

瀬間仲 姉はいつか自分の学校を持ちたいという夢があって、ちょうど僕が豊橋の学校に入って1年後ぐらいに、この大泉町で学校を開くチャンスが巡ってきたんです。

パンチ 僕はブラジルの人の多い町といえば、静岡・浜松しか知らなかったんだ。大泉町もそうだったんだね。

瀬間仲 はい、ブラジル人が多い割に学校はなかったので、ここに来ればチャンスもあるんじゃないかと思いました。

パンチ 学校からレストランにシフトしたのは、何が理由だったの?

瀬間仲 ずっと同じ場所で学校をやることは大事なんですが、二度大変な時期がありまして。一度目はリーマンショックで、ブラジル人の仕事がなくなりました。日本語や英語を勉強する時間があっても、お金がない。

パンチ 最初に削るのは、そういうところだもんね。

瀬間仲 その時期を乗り越えて、また軌道に乗ったとき、東日本大震災が起こって、多くの人がブラジルに帰ってしまいました。それから、やはり違うこともやっていかないといけないと考え、最初はいろんなイベントにブラジル料理の屋台を出したんです。ブラジル料理に日本の揚げ餃子のような「パステル」というものがありまして、それをメインに出しました。

パンチ さっきいただいたけど、中に肉とかチーズとか、いろんなものが入っていておいしいね。これは好評だったでしょう。

瀬間仲 東京のビッグサイトとか代々木公園とか、大きなイベントに出して、そこで「お店はどこですか?」とよく聞かれるようになったんです。それで、どこかにお店を作ったら面白いかなと思いました。

パンチ 俺たち、レストランやれそうだぞってなってきたんだね。それでいきなり、この店を始めたの?

瀬間仲 イベントに屋台を出していたとき、イベントのない冬は収入がゼロになってしまうので、キッチンカーも並行してやっていた時期がありました。その後、知人の社長さんに「貸しビルが空いたので、見てみない?」と紹介されたのが、ここでした。

店の工事から内装まで仲間たちと手作りで



店内で料理を前に瀬間仲氏(左)、パンチ氏


パンチ 開業資金はどうしたの? こんな広いお店、作るのにもお金がかかったでしょう。

瀬間仲 工事から内装から、全部自分たちでやりました。ウチの奥さんと友人たちですね。

パンチ それはみんなに感謝しないとね。僕は今回、小さな町のブラジル料理店って聞いて、定食屋さんみたいな小ぢんまりした店を想像してきたんだよ。こんな大きいとは思わなかった。ハワイかどこか、外国に来た気分だもん。テラス席まであってさ。

瀬間仲 ここを始めて5年になりますが、既存のブラジル料理店は、普通の建物にプラスチックのテーブルやイスを適当に置いて、料理を出すようなところが多かったんです。それは違うな、と思って……。

パンチ それで本格的なブラジル料理のお店を作りたいと思ったんだ。

瀬間仲 あと、自分はコーヒーが好きで、いろんな喫茶店に行って内装や雰囲気を見る中、「こういう雰囲気が好きだな」「こういう感じが面白いな」と思うところが結構ありました。自分もそういうきれいなお店を作りたいと考えました。

パンチ 5年間、トントントンっと右肩上がりに来たの?

瀬間仲 そうですね。こういうお店がなかったこともあって。特に暖かい時期は、外の木製のデッキ席がとても人気です。あれも全部、自分たちで作ったんですよ。

パンチ この店をやっていくにあたって、スタッフにはどんな話をしたんですか? こういう目標を持とうよとか、あるいはこういうことに気を付けてやっていこう、とか。

瀬間仲 あまりそんなふうには話していないですね。みんな、今までも一緒にボランティア活動をしてきた仲間なんですよ。月に1回、東京に行って、ホームレスの方に炊き出しをしたり、悩んでいる人の話を聞いて心のケアをしたり。だから、気心が知れています。スタッフ一同、ウチのレストランにわざわざ来てくださったお客様一人ひとりに感謝の気持ちをもちながら、おいしいお料理を味わっていただきたいと思っています。

パンチ 瀬間仲君はすごいね。ブラジルから来て、野球を引退してまったく知らない場所に移って、ボランティアまでする気持ちの余裕っていうのかな。それはお父さん、お母さんの小さいころからの教育なの?

瀬間仲 ブラジルからいろんな苦労をしてきたので、やはり他の誰かが同じ状況になったら理解できる部分もあるし、その方を少しでも楽にしてあげたいという気持ちはありますね。

パンチ その気持ちが、今を作ったんだろうな。お店の雰囲気を見れば分かるよ。なんか、あったかい感じなんだよね。そういう他人に対する気持ちがあるから、社長が助けてくれるし、みんなも集まってくるんだね。

瀬間仲 ウチのスタッフ自体が、助け合っている家族みたいな感じです。

パンチ 将来の夢は?

瀬間仲 自分で商売をやっているからには、大きな成功を収めたいですね。

パンチ 十分成功しているよ。

瀬間仲 経済的に心配しないでもボランティアとかいろいろな活動ができるようになれればいいなと思います。

パンチ 偉いなあ。俺、35歳のときにそんなこと考えられなかったよ。いずれ球界を離れる後輩たちに贈りたい言葉はありますか?

瀬間仲 日本人の友達が落ち込んでいるときにも言うんですけど、みんな僕より日本語ができて、僕よりはるかにチャンスがたくさんあるんだから、落ち込まなくても大丈夫だよって。こんな僕にだって、チャンスはあったんですから。

パンチ 本当だね。何を悩んでいるんだって感じだよね。

瀬間仲 すべて、考え方次第だと思います。自分がダメになっていくイメージばかり考えないで、これから3年後、5年後に自分が最低でもこうありたいという姿をイメージしていけば、どんどん道が拓けるというか。それに向けて行動もできるようになってくると思います。

パンチの取材後記


 今回の対談で一番「なるほど」と思った言葉は、「人間は悪いことを考えると、どんどん悪いほうへ行ってしまう。夢を持って前に進むと、道も拓ける」ということ。まさにそのとおりだなと思いました。

 僕がオリックスに入団したときの監督だった上田利治さんは、ベンチで機嫌がいいと「ダイナマイト!」と大声で言いました。あるとき西武戦で9回表まで、4点差で負けていたんです。9回裏、一番・松永(浩美)さんに監督、「ホームラン狙え!」。え? っと思った瞬間、カポーンとホームラン。監督、「ダイナマイト!!」。二番・僕。「佐藤、デッドボールでもいいからなんとか塁に出ろ」と言われて、センター前ヒット。そこから3人連続ホームランで、「ダイナマイト!!」×3。なんと大逆転ですよ。

 それ以来、僕も「ダイナマイト!」と口にするようになりました。自分を奮い立たせたいとき、落ち着かせたいとき。すると、ラッキーな風がどんどん吹いてくるんです。イメージ、言葉。本当に大切ですね。

●瀬間仲ノルベルト(せまなか・のるべると)
1984年5月31日生まれ、ブラジル・サンパウロ州出身。ブラジルで野球を始め、日章学園高に進学。高3夏に宮崎県代表として甲子園出場し、初戦の興誠高(現浜松学院高)戦で敗れたものの、一時は同点となる特大本塁打を四番打者として放ち、注目を浴びた。ドラフト7巡目で2003年中日に入団し、05年限りで退団(05年の登録名は『ホッシャ』)。一軍試合出場なし。引退後は語学学校などを経て、現在はブラジル料理店「KAMINALUA」(群馬県邑楽郡大泉町坂田2-14-7)のオーナー。

●パンチ佐藤(ぱんち・さとう)
本名・佐藤和弘。1964年12月3日生まれ。神奈川県出身。武相高、亜大、熊谷組を経てドラフト1位で90年オリックスに入団。94年に登録名をニックネームとして定着していた「パンチ」に変更し、その年限りで現役引退。現在はタレントとして幅広い分野で活躍中。

構成=前田恵 写真=犬童嘉弘
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