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落合博満も脱帽。西武黄金期で工藤公康、渡辺久信より「すごい球を投げていた投手」とは

 

オリエンタル・エクスプレス



 1980年代後半から90年代前半に黄金時代を築いたのが西武だった。85年からの10年間でリーグ優勝9度、日本一6度。野手は伊東勤清原和博辻発彦石毛宏典田辺徳雄秋山幸二デストラーデ平野謙と打線の破壊力もさることながら小技と機動力も絡めた緻密な野球で、内外野とも守備が堅かった。

 投手陣に目を移すと、東尾修工藤公康渡辺久信、郭泰源、石井丈裕渡辺智男新谷博ら盤石な先発陣に加えて、救援陣も鹿取義隆潮崎哲也が抜群の安定感を誇った。とりわけ、最優秀防御率を4度獲得(ダイエー時代含める)したプロ通算224勝の工藤、最多勝を3度獲得した通算125勝の渡辺久が象徴的存在として人気を集めていたが、相手選手やチームメートから「一番すごい球を投げていた」と評されていたのが、郭泰源だった。

 郭はアマチュア時代からメジャー球団にも注目されていた逸材だった。21歳の83年にチャイニーズタイペイ代表でアジア選手権に出場。決勝・日本戦に先発登板して9回無失点の完封勝利を飾り、ロサンゼルス五輪の出場権獲得の立役者となった。日米数球団が獲得に名乗りを挙げる争奪戦に。84年に同五輪で銅メダルを獲得すると、西武入りを決断した。

 スリークォーターから繰り出される最速158キロの直球が武器でついた異名が「オリエンタル・エクスプレス」。1年目の85年から衝撃の投球を見せる。4月は3完投で2勝0敗、防御率は0.32で月間MVPを受賞。6月4日の日本ハム戦(平和台球場)ではノーヒットノーランを達成した。右肩痛でシーズン途中に離脱したが15試合登板で9勝をマーク。86年は右肩の状態を首脳陣が配慮し、短いイニングの守護神に抜擢されて16セーブをマークした。87年以降は工藤、渡辺と共に「三本柱」として先発ローテーションに定着し、88、94年に最高勝率のタイトルを獲得した。

 91年にはMVPを獲得した。「その年、僕は2位の近鉄に対して強かったんですよ。ほとんど負けていないと思います(7勝1敗、防御率0.78)。だからMVPももらえたんじゃないかな。そのころは試合で投げるのが楽しくて仕方がなかったですよ。技術的にも、精神的にも最も脂が乗っていたころ。一番ピッチャーとして楽しかったね」と郭自身も最も印象深いシーズンに挙げる。

 在籍13年間で通算117勝68敗18セーブ、防御率3.16。2ケタ勝利6度をマークしたが、この数字が少なく感じるのは右肩痛、右ヒジ痛、腰痛など度重なる故障に悩まされたことが要因だった。95年のシーズン終盤に右手首を痛めたのが致命傷となり、96、97年と未勝利に終わり現役引退した。

快速球に高速スライダー、シュート


快速球に高速スライダー、シュートを織り交ぜる投球は絶品だった


 とにかく全盛期の輝きは圧倒的だった。当時バッテリーを組んだ伊東勤は「とにかく速い。最初に(投球を)受けたとき、こんな投手がいるのか、と衝撃を受けた」と振り返り、球界屈指の速球派で知られた渡辺久も「僕が一番、速い球を投げる。そう思っていたのは、郭泰源の球を見るまで」と脱帽した。ロサンゼルス五輪で郭と対戦し、プロ通算306本塁打をマークした長距離砲・広澤克実も「(郭の)当時の速球は、2007年ごろの藤川球児にも劣らない」と評価していた。

 単に球が速いわけではない。高速スライダーとシュートを駆使し、制球力も抜群だった。プロ野球史上唯一の三冠王3度獲得した落合博満が2012年にJ SPORTSのトーク番組「野球好きニュース スペシャル」にゲスト出演した際、「俺が本当に打てないと思ったのは郭泰源」「あの真っすぐとあのスライダーが同じ球速で来たら打てない」とコメントするほど。伊東も「調子がいいときなら、ほとんどミットを動かさなくていい。高めに浮くこともないし、受けていて、これほど楽で、楽しい投手はいなかったですね」と絶賛していた。

 当時の主力投手では珍しく200イニング以上投げた年が一度もなかった。先発投手は中4日で登板が常識だったが、郭は肩やヒジの負担を軽減するため、中5日、中6日で投げていた。このスタンスに批判の声が当時は少なからずあったが、現代野球では主流となっている。登板間もブルペンでの球数を抑えていた。調整法の観点から見ても「時代の先駆者」と言えるかもしれない。

写真=BBM
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