週刊ベースボールONLINE

HOT TOPIC

【闘将・西本幸雄監督を語る(1)】捕手・中沢伸二「西本さんの厳しさは『親』のようだった」

 

1963年から阪急ブレーブスを率いた西本幸雄監督。チームを常勝軍へと成長させ、67年の球団初優勝を含む5度のリーグ優勝に導いた。そんな名将が誕生し、今年で100年。節目の年に、教え子が名監督との思い出を語る。

胸に焼き付く言葉


阪急を常勝軍に育て上げた西本幸雄監督監督


 捕手・中沢伸二の現役生活は、阪急一筋、21年間。山梨・甲府工高からプロ入りした1965年(昭和40年)は、西本幸雄監督が阪急を率いて3年目のシーズンだった。中沢はプロ生活のスタートから9年間を、西本監督のもとで過ごすことになる。

「トータルで21年も現役をやれたのは、西本さんから上田(利治)さん、梶本(隆夫)さんと、教えがつながっていったのかなと。西本さんとの9年間。その中で、自信がつくというのかな。西本さんが“そういう目”で見てくれていた、そういうポイントがあるんですよ」

 懐かしそうに振り返ってくれた名将との日々。その中で、中沢の心に、今も鮮明に焼き付いているシーンと、その時の「言葉」がある。

「監督っていえば、高校の監督のイメージしかないじゃないですか? 西本さんといっても、大毎で監督をされていた方だな、というくらいの印象しかなかった」
 
 昭和30年代の高校野球。監督の言うことは絶対。少々、理不尽なことでも、何の疑問も持たず、従うのが当然だった。何しろ、水を飲んだらバテると言われ、暑さにくじけそうになれば、根性がないと、鉄拳が飛んでくる、スポーツ根性主義の時代。監督というのは、まさしく絶対的存在だった。怖いとか、そういった感情は、二の次、三の次。ましてや、高校からプロ入りしたばかりの18歳。中沢が入団した当時の西本監督は45歳だから「はっきり言って、親父と子どもです」。中沢から話しかけるなど、ありえない時代でもあった。

 プロ入り直後の自主トレは、まだ寒い1月の西宮。練習を終え、片付けが終わって、一人で風呂に入っていると、そこになんと、西本監督も入ってきた。ほっと一息つけるはずの風呂場で、監督と1対1。その緊張ぶりを見越してなのか、西本は中沢に対し、何とも柔和な表情で近づいてきて、話しかけてくれたという。

「ご両親は、健在か?」

 野球のことでもない。慣れたかといった話でもない。「まったく予想していなかったよね。だから、すごく印象に残っているんだ。西本さんは戦争に行かれた方。僕らは、戦争が終わってから生まれた子。だから、親に対しての感覚が、違ったんでしょうね。あの『健在か?』っていう声の柔らかさ。60年前だけど、印象に残っていますね。ユニフォームのときと私服のとき、まったく違いました」

 東京の宿舎でも、こんなことがあったという。3年目、まだ一軍の控え捕手だったころだ。試合後、西本監督、青田昇コーチと、ベテランのある選手たちが、麻雀卓を囲んでいた。その勝負を、中沢はギャラリーの1人して眺めていた。すると1人のベテラン選手が、所要でしばらく、席を空けることになった。

「オイ、中沢、お前やれ」

 西本監督から“代打”を告げられたのだという。監督と、若手選手が麻雀に興じる、何ともおおらかな時代のワンシーンだろう。

「リーチかけたら、怒られたなあ」

 そんな茶目っ気もあった“野球界の親父”も、こと野球となると、シビアだった。


基礎作りの日々


21年の現役生活を過ごした中沢伸二。その礎は、名将・西本監督のもとで築かれていった


 当時、阪急のレギュラー捕手は岡村浩二。中沢より6歳年上で、67年(昭和42年)からリーグ3連覇を果たしたころが、まさしく岡村の全盛期。入団時にも、担当スカウトから「岡村がいるからな」と、その存在の大きさを聞かされていた。なかなか、抜けなかった。

 ライバルであり、身近な、そして大きな目標でもあった。ある日、中沢が室内練習場で、打撃練習をしていた。岡村のバッティングフォームを熱心に研究し、マネをして打っていたのだという。

 その時、西本の怒声が飛んだ。

「お前のやってることは、違うのとちゃうか?」

 その時、中沢は西本監督の言葉が「理解できんかったのよ。間違っているというのが、ね」。先輩のいいところを盗む。当時は、それこそ、手取り足取りの指導ではない。だからこそ目標の存在をマネる。しかし、そこには、オリジナリティはない。もう一人、岡村が生まれても、監督としては、使い道がない。違うタイプの個性が必要なのだ。

「どやしつけられたよね。ちょっと集中が緩んでいたりしたら、それを注意する。声の掛け方が『親』なんです。それが西本さんの厳しさというのかな。でもそこに、愛情をすごく感じましたね」

 西本との9年間。中沢は常に2番手捕手だった。「3年目に、一軍に上がったけど、そこから7年間、2番手、3番手だったんよ。どういうのかな、もやもやとたまるもの、いっぱいあるじゃない? ぼちぼち、先がないよな、という話をしているころだったんですよ」

 阪急を率いて11年間。67年(昭和42年)からリーグ3連覇、71年(同46年)から2連覇と、計5度のリーグ優勝に導いた闘将・西本監督が退団するのは73年(同48年)のこと。その最終戦が終わった直後のことだった。

 当時、西宮球場の一軍ロッカーは「A」と「B」に分かれていた。その主力以外の「B」にいた中沢のもとへ、西本監督がやって来た。

「俺は辞める。そやけど、お前は大丈夫や。力がついてきた」

 最後の最後に、西本監督が褒めてくれたのだ。

「ずっと甘いモノの考え方だったと思うんだよ。イライラしてはったと思うよ。でも、最後の日やったね。プレーオフで、南海にやられた。その後、わざわざロッカーに来てくれたんですよ」
 
 その“お墨付き”が、中沢の自信につながった。知将・上田利治監督に引き継がれた新生・阪急。プロ10年目の74年(昭和49年)、上田政権1年目から、中沢はレギュラーマスクをつかみ、78年(同53年)にはベストナイン、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデン・グラブ賞)を受賞。82年(同57年)には打率.302でパ6位。2度目のベストナインにも輝いた。

 75年(昭和50年)からリーグ4連覇。上田阪急の黄金期を支えた名捕手・中沢は、85年(同60年)に現役引退。阪急一筋、21年間のプロ野球人生で、リーグV10回、3年連続日本一も経験している。

「21年、万々歳の野球人生ですよ。いい思いもさせてもらって、何回も優勝できたからね」

 振り返ってみれば、西本監督との9年は、中沢にとって、数々の栄光に輝く、長きプロ生活を送ることができた、その“基礎作りの日々”でもあった。

取材・文=喜瀬雅則 写真=BBM


【誇り高き闘将〜西本幸雄メモリアルゲーム〜開催】
 阪急・近鉄などを率いてパ・リーグ8度のリーグ優勝を果たし、2020年に生誕100年を迎える西本幸雄氏の多大な功績に敬意を表し、オリックスが「誇り高き闘将 〜西本幸雄メモリアルゲーム〜」を10月1日の西武戦(京セラドーム)で開催。1967年当時、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが初優勝を決めた10月1日に、当時のホームユニフォームをオリックスの監督・コーチ・選手が着用し、闘将の背番号『50』をチーム全員で背負って戦う。

関連情報

関連キーワード検索

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング