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【闘将・西本幸雄監督を語る(2)】投手・久保康生「僕は西本さんにとっての“最後の遺作”」

 

1963年から阪急ブレーブスを率いた西本幸雄監督。チームを常勝軍へと成長させ、67年の球団初優勝を含む5度のリーグ優勝に導いた。そんな名将が誕生し、今年で100年。節目の年に、教え子が名監督との思い出を語る。

フロリダに行ってこい


阪急を常勝軍に育て上げた西本幸雄監督(左)は、1974年から同リーグのライバル球団・近鉄の指揮を執ることに(右)


 阪急での監督生活は11年間。3連覇を含む、5度のリーグ制覇を果たした闘将・西本幸雄監督は、退団翌年の1974年(昭和49年)から、今度は同リーグのライバル・近鉄の監督に就任。自らが手塩にかけて育て上げた“強い勇者”を追う立場へと変え、また新たなる闘いに挑むことになった。

 その西本近鉄4年目にあたる77年(昭和52年)のドラフト1位が、柳川商高の右腕・久保康生だった。

「僕は、西本さんにとっては“最後の遺作”みたいな感じじゃないですかね。ホントの意味で、今の僕の基礎を作ってくれた人です」

 久保は、恩師の存在をそう力説してくれた。今年で62歳。還暦を超えながらも、久保は今なお、ユニホームを着て、グラウンドに立ち続けている。これもまた、西本から教え込まれた“指導への熱情”なのかもしれない。

 近鉄、阪神で21年間の現役生活を送り、97年(平成10年)に引退。その直後から近鉄、阪神で投手コーチを歴任、近鉄では岩隈久志(現巨人)、大塚晶文(現中日編成部国際渉外担当)ら、後の米メジャーでも実績を挙げた若手たちを独り立ちさせ、阪神ではメッセンジャーにカーブを伝授、10年で2ケタ勝利7度の通算98勝というエースに飛躍させた。

 韓国球界での指導歴もあり、2018年(平成30年)からは、ソフトバンクの二軍投手コーチを務めている。その育成法はいまや“魔改造”ともいわれ、球界随一の理論と手腕の持ち主でもある。

 その久保は「西本さんがバリバリのときの5年間」という、濃厚な時間を、西本監督の下で過ごしている。

「これからチームを強くするぞという、その環境が整い始めたところでしたね。だから、近鉄に入って恵まれていました。入ったときの西本さんは、正直、おじいさんみたいな感じはしましたけど、あの当時から、実に合理的なトレーニングでした。理不尽なことをいう人やコーチはいなかったですしね」

 プロ2年目の78年(昭和53年)の9月に初先発。翌79年に西本近鉄は、球団創立30年目にして、初のリーグ優勝を成し遂げる。「日本シリーズのメンバーに入れる、そう思っていた」と意気込んでいた久保は、シーズン終盤のある日、西本監督に監督室へ呼ばれた。

「お前は、日本シリーズで使えると思う。でも、これからの選手だからな。フロリダに行ってこい。そして、来年の戦力になれ」

 久保を含めた若手6人が、アメリカ・フロリダの教育リーグに送り込まれることになった。「日本シリーズのベンチにいたら、どうしても使ってしまうから」という旨を、西本監督に告げられたという。

 さらに「アメリカでは好きなようにやってみろ。広い視野が、必要だからな」。目の前の戦いにとらわれず、そのさらに先を見据えた西本監督の“懐の大きさ”を物語るエピソードでもあるだろう。

最終試合で、僕は投げている


メキメキと力をつけた久保康生(右)。西本監督のラストゲーム・81年10月4日の近鉄対阪急の試合でも登板し、試合後には名将を胴上げした(左)


 久保は西本の見込んだとおり、アメリカ教育リーグに派遣された翌年、プロ4年目の80年(昭和55年)に8勝をマーク。西本監督が勇退した翌年の82年(昭和57年)には、自己初の2ケタ勝利となる12勝をマークしている。

「全然、怖い人なんかじゃなかったですよ。悪に強い、正義の味方みたいな方です。僕にとっては、自分好みの方でした。一生懸命にやっていると、必ずご褒美をくれる。努力したら、絶対に実る。そういう人たちを、いっぱい見てきました」

 代走・藤瀬史朗。攻守にしぶとい石渡茂。守備の名手・吹石徳一。久保が挙げた名前は、何とも玄人好みのメンバーばかりだ。

「いぶし銀の人。そういう人たちをうまく使う印象が残っていますね。飛車角の下の歩兵隊というんですかね。そういう方々を、うまく戦力にしていきましたよね」

 その“無私の心”に、久保は惹かれた。結婚する際も、仲人を西本監督に頼みに行くと「そうか。でも、俺よりも、もっとええ人がおる」と西本監督が紹介してくれたのは、近鉄本社社長だった上山善紀。後に、近鉄球団のオーナーになる人物だった。

「そういう先見の明というのはすごかったですね」

 久保と上山との家族ぐるみの付き合いは、その後も長く続くことになったという。

 その西本監督と一度だけ、ゴルフを一緒にラウンドした日のことを、久保は忘れることができないという。2005年(平成17年)、阪神で投手コーチを務めていた当時、キャンプ地の沖縄でのことだった。「よう頑張っとるな。あの時は全然やったけどな」と、温厚に笑った西本監督とのゴルフは「夢みたいでしたね」。

 81年(昭和56年)10月4日、西本監督としてのラストゲームは、大阪・日生球場での近鉄対阪急戦。久保は「西本さんの最終試合で、僕は投げています」というのが、自らの野球人生に刻み込まれた一つの誇りでもある。試合後、両球団の教え子たちの手で、自然発生的に胴上げが行われた。さらに11年(平成23年)11月、91歳で逝去した西本監督の葬儀では、出棺のときに柩をかついだ西本監督の教え子10人の中に、久保の姿があった。

「コーチになって、喜んでもらったの、忘れないな。柩をかつがせてもらったのも、覚えています。西本さんは、プロに入ってからの、僕のルーツともいえる方なんです」

 西本監督に厳しく育てられ、優しく見守られてきたからこそ、今の自分がある。その『西本イズム』で、久保は後進の指導にあたっている。闘将の“魂”は、今も着実に、受け継がれているのだ。

取材・文=喜瀬雅則 写真=BBM


【誇り高き闘将〜西本幸雄メモリアルゲーム〜開催】
 阪急・近鉄などを率いてパ・リーグ8度のリーグ優勝を果たし、2020年に生誕100年を迎える西本幸雄氏の多大な功績に敬意を表し、オリックスが「誇り高き闘将 〜西本幸雄メモリアルゲーム〜」を10月1日の西武戦(京セラドーム)で開催。1967年当時、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが初優勝を決めた10月1日に、当時のホームユニフォームをオリックスの監督・コーチ・選手が着用し、闘将の背番号『50』をチーム全員で背負って戦う。
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