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中学時代は柔道部 巨人、阪神で四番打者務めた唯一の長距離砲とは

 

広角に一発を放つスラッガー


ヤクルト巨人阪神と所属したすべての球団で四番を打った広澤


 メジャー・リーガーは学生時代にアメリカンフットボール、バスケットなど他競技もプレーするケースが珍しくない。一方で日本の学校は野球部と他競技の兼部は原則として認められず、違うスポーツをやってから野球に移るケースも少ない。ただ、アスリートたちに話を聞くと「他競技をやることは野球にも大いに役立つ」とメリットを強調する。

 日本では異色の経歴で長距離砲として活躍したのがヤクルト、巨人、阪神と全球団で四番打者を務めた広澤克実だ。広澤は中学時代には柔道部で北関東準優勝の実績がある。右打席から逆方向の右翼に打球が伸びるのは柔道で鍛えた右上腕三頭筋の力の賜物だろう。広角に本塁打を打てるのが大きな魅力だった。

 小山高から明大に進学し、3年時に六大学リーグ史上2人目の春秋連続首位打者、リーグ新記録の4試合連続アーチと一気に評価を上げた。日本代表に選出された1984年のロサンゼルス五輪では決勝・米国戦で本塁打を放ち、金メダル獲得に大きく貢献。ドラフト1位で日本ハム西武、ヤクルトで競合となり、交渉権を引き当てたヤクルトに入団した。

 1年目から18本塁打を放ち、4年目の88年には自己最多の30本塁打をマーク。池山隆寛との長距離砲コンビでファンから人気を集めたがチームは下位に低迷していたため、「お客さんが増えたのはうれしかったけど、逆に勝ちたいという欲求も出てきた。巨人に勝ち越すなんて夢のまた夢だったし、中日広島も強かった。この3強を崩すことは僕の中では難しいなと思っていましたよ。当時はね」と複雑な胸中を明かしている。

ヤクルト時代、「野村の考え」を取り入れ、大きく成長していった


 だが、90年から野村克也監督が就任にして不動の四番になると、ヤクルトは黄金時代を築く。広澤もID野球を学び、配球を読んで状況判断に応じた打撃を磨いたことで91、93年と2度の打点王を獲得。94年オフに、巨人に5年契約でFA移籍した。

 だが、この5年間は試練の連続だった。野村監督は「巨人の体質と(広澤は)合わない」と話していたが、その懸念が的中してしまう。本職の一塁には不動の四番・落合博満がいたため、不慣れな外野にコンバートされたのも影響したのか、移籍1年目は打率.240、20本塁打とプロ入り以来初めて打率は2割5分を切った。翌年は春季キャンプで骨折し、開幕一軍に間に合わず全試合出場は9年連続でストップ。97年は打率.280、22本塁打と意地を見せるが、本職の一塁は清原和博マルティネスがしのぎを削り、外野は松井秀喜高橋由伸清水隆行で固定されたため、99年はわずか16試合の出場のみ。同年限りで退団した。

悔いのない19年の野球人生


阪神時代、お立ち台で『六甲おろし』を熱そうする広澤


 ここで救いの手を差し伸べたのが恩師の野村監督だった。阪神に移籍すると、四番を務めるなど勝負強い打撃に加え、お立ち台では『六甲おろし』を熱唱してファンの心をつかんだ。星野仙一監督2年目の03年には代打の切り札でリーグ優勝に貢献。ダイエー(ソフトバンク)との日本シリーズでは7戦目に和田毅から歴代最年長記録となる41歳6カ月での本塁打を左翼席に放ち、これが現役最後の打席に。「野球の神様っているんだなと思った」と感慨深げだった。

 セリーグの3球団を渡り歩いた現役19年。「楽しいことも苦しいこともあったが、悔いはない」と引退会見で言い切った。引退後に行われた週刊ベースボールのインタビューでは「現役生活の中で広澤さんが最も誇りに思うことは、何になりますか?」と問われ、次のように答えた。

「そんなに誇れるものはないですけど、あえて言うなら、ヤクルト、巨人、阪神で四番を打たせてもらったこと。あとは、素晴らしい監督、上司に巡り合えたこと。明大の島岡吉郎監督にはじまって土橋正幸さん、関根潤三さんもそうですが、特に野村さん、長嶋さん、星野さん。この3人の下でプレーした経験があるのは、僕だけですから。『この3人のネタがあれば講演会だけで食っていけるぞ』と言われますけど(笑)。良きチームメートとの出会いも含めて、僕にとって大きな財産ですね」

 通算1893試合出場、打率.275、306本塁打、985打点。四番打者が似合う稀代の長距離砲だった。

写真=BBM
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