一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。 南海と大阪球場の関係
今回は『1972年2月7日号』。定価は90円。
少し時代が戻る。
1969年11月、南海・川勝傳オーナーが野村克也に兼任監督に任せ、チーム再建を委ねた。
「南海ホークスのことは君に任す。昔のような強いホークスにしてほしい。そのために全面協力は惜しまない」
これが就任を渋る野村への口説き文句だった。強化資金にケチ球団としては珍しく、2億円を用意。
鶴岡一人監督末期にあった現場とフロントの確執は消えたかに思えた(ほんとに2億円使ったかは不明)。
しかし、それからわずか2年で早くも不協和音が起こっていた。
71年オフ、野村は野手の
広瀬叔功、
富田勝クラスを放出しても投手陣を強化してくれ、とフロントにリクエスト。しかし、それは野村が知らないところですべて消された。
理由はいろいろあるようだが、野村監督から見たら、いまだに鶴岡監督の影響力がフロントにあるように見え、腹立たしく思っていたようだ。
不入りが続き慢性的な赤字経営となっている球団にとって、悩みの種が大阪球場だった。
球団は球場の賃貸条件として入場料収入、放送収入の33パーセントを支払い、売店、広告収入はすべて球場に入ることになっていた。
「球団は年間予約席を取るのにあまり熱心ではない。せっかく集めても球場に持っていかれるという思いがあるようだ」(関係者)
球場は周辺に持っている駐車場収入で大きな利益を出しており、あまり試合での収入に興味を持ってない、とも言われた。
ただ、この話、根本的におかしい気が……。
大阪スタジアムは南海電鉄が大阪市から土地を購入し、本社の資金で球場を建設したものではなかったのか。
読んでいくと、かなりグチャグチャになっているようだ。
このときの大阪スタジアムの浅田社長は本社の反主流派で、ことごとく本社に対立。しかも本社が持っていたスタジアムの株は半数以上を証券会社に肩代わりしてもらっていたという。
南海電鉄の球場への影響力はかなり落ちていたようだ。
ただ、そうは言っても客が増えなければ球場の収入も増えない。
69年4月、仕切り直しとばかり、球団は新会社として再スタート。資本金3000万円のうち2000万円を電鉄、1000万円をスタジアムが持ったが、以後も互いのわだかまりは消えず、微妙な関係が続いているということだった。
現場の野村監督にしたら「ええ迷惑や」だろう。
では、またあした。
<次回に続く>
写真=BBM