月刊誌『ベースボールマガジン』で連載している伊原春樹氏の球界回顧録。2020年6月号では選手時代の監督に関してつづってもらった。 トレード決定後に江藤監督が解任
野球に対しては熱かった長嶋監督
西鉄は1973年から太平洋クラブになっていたが、75年からは
江藤慎一監督が選手兼任で指揮を執ることに。
中日、
ロッテ、大洋で強打を発揮し、通算300本塁以上していた江藤監督は稲尾監督とは真逆だった。がらっぱちな性格で、試合で選手がちょっとしたミスを犯してもコーチを呼んで蹴とばしたりする。熱過ぎるのだ。チームは
土井正博さんや
白仁天さんも加えた「山賊打線」が引っ張り、前期は2位と大健闘。後期は打線に疲れが見えて4位に終わったが、通算では3位と8年ぶりのAクラスに入った。
しかし、私はキャンプで右ヒザを痛め、我慢してプレーしていたが、それも限界に達し、シーズン途中からファームへ。江藤監督のスタイルとも合わないこともあって、生意気にも球団上層部に「トレードに出してください」と直訴してしまった。すると2、3日後に呼び出されて「
巨人に行ってもらう」。同僚の
加藤初と巨人・
関本四十四、
玉井信博との交換トレードにくっついていくことになった。だが、数日後、江藤監督の解任が発表。球団がMLBのドジャース、ジャイアンツなどで手腕を発揮したレオ・ドローチャーの監督招聘を画策したからだった(結局、実現せず)。びっくりした私が球団上層部へ電話をかけると「いや、すまん。急に決まってしまったんだ」。トレードが覆るはずもない。私は76年から巨人でプレーすることになった。
移籍先の巨人を率いていたのは指揮官となって2年目の
長嶋茂雄監督。だが、当然、そんなに言葉を交わすことはない。ただ、キャンプでフリー打撃をしているときに、ケージの後ろから「バットに当てるのうまいねえ」と、あの甲高い声で言われたのは覚えている。
長嶋監督も勝負事には熱い。神宮でのことだ。この球場はベンチからロッカーへ入るには鉄のドアがあり、それはいつも開けっ放しだった。あるとき、試合中に長嶋監督が興奮して、ロッカー側から鉄のドアをけり上げた。するとドアが閉まり、開かなくなってしまった。ロッカーから「おい、開かないぞ」という長嶋監督の声。だが、
国松彰コーチが「しばらくほっておいて、頭を冷やさせたほうがいい」と言っていたのを思い出す。
根本監督独特のキャッチボールの教え
根本監督の話は抽象的だった
78年、私はクラウンとなっていたライオンズに戻ったが、同時にチームを率いることになったのは
根本陸夫監督だった。根本監督で驚いたのはキャンプの練習で、いきなりキャッチボールに1時間を費やしたことだ。その投げ方の指導も独特。「ボールを持ったら、最後は(右利きなら)左肩を下げて右肩を上げて、右手が左ヒザの裏側につくくらいに投げろ」と言う。
極端なオーバースローになるのだが、投げ方を10段階に分けたとしたら、1と10を指示されるだけで、間の2から9の説明がない。繰り返されるのは、始動とフィニッシュばかり。コーチがフォローしてくれればいいのだが、誰もその意図を理解していなかったのだろう。見ているばかりで誰も何も言うことはなかった。とにかく根本監督が言うことは抽象的で哲学的な言葉が多く、理解するのはなかなか難しかった。ミーティング中にある選手が手を挙げて「監督が言っていることはまったく分かりません」と言い出したこともあった。
79年から
西武が親会社となり本拠地は埼玉・所沢へ。根本監督はそのままチームを率いたが、私は80年限りでユニフォームを脱ぎ、翌年からコーチとなったが、その際に根本監督から言われたのは「コーチは選手に教えてはいけない」ということ。ドジャースの戦術や指導方法をまとめた『ドジャースの戦法』に「コーチは選手に教え過ぎるのはよくない」「コーチは選手が聞きに来るまで教えなくていい」と書かれていたが、おそらくそういうことだったのだろう。だが、それとは真逆に根本監督自身は、特に若手に対しては“教え魔”になっていたのは不思議だった。
ただ、1つだけ指導者として大切なことを教えてもらった。それは「選手に言ったことに対して責任を持て。言ったことや感じたことをメモするように」ということだ。それからは、どんなに些細なことでもメモを取るようにしたが、それは指導者人生では大きく役立ったのは間違いない。
写真=BBM