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大学から投手転向し、「メジャー屈指の守護神」と呼ばれた日本人右腕とは

 

大学2年から投手へ


メジャーではドジャースなどで通算84セーブを挙げた斎藤/写真=Getty Images


 野茂英雄が大活躍して切り拓いたメジャー・リーグの世界。異国の地に挑戦した日本人選手にはさまざまなタイプがいる。日本球界で活躍し、さらなる高みを目指して決断した選手。日本では無名だったのに、メジャー通算51勝を挙げた大家友和のような成功例もいる。この選手も周囲を驚かせた選手の1人だろう。ドジャースで39セーブを挙げるなどメジャー屈指の守護神として活躍した斎藤隆だ。

 斎藤は東北高で一塁手として甲子園に出場し、東北福祉大でも野手で入学している。2年から投手に転向し、大学球界を代表する速球派に。横浜(現DeNA)に1992年ドラフト1位で入団という異色の野球人生だ。プロ2年目の93年から先発ローテーションに入り、96年には初の2ケタ勝利となる10勝を挙げ、206奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得。一方でリーグワーストの31被本塁打を喫し、巨人松井秀喜に7本塁打を浴びる。奪三振は多いが被弾も多い。典型的な力投型だった。

横浜では先発、リリーフで活躍した(右は駒田徳広


 エース右腕として、98年は13勝5敗1セーブで38年ぶりのリーグ優勝、日本一に貢献。99年も自己最多の14勝をマークした。2001年には大魔神・佐々木主浩の後継者として守護神に抜擢され、7勝1敗27セーブ、防御率1.67の好成績を挙げる。

 ただ、03年は6勝、04年は2勝、05年は3勝と下降線をたどった。当時36歳。年齢による衰えを指摘する声も少なくなかった。ここで斎藤は驚くべき決断をする。「たった一度でもいいからメジャーで投げたい」と自由契約となり、メジャー挑戦へ。ベテラン右腕に興味を示す球団はなかなか見つからず、2月にドジャースとマイナー契約を結ぶ。このときは斎藤の大活躍を誰も予想できなかっただろう。

 開幕戦はスタンドで観戦していたが、開幕直後にクローザーを務めていたエリック・ガニエが右ヒジ痛で故障者リスト入りしたため、4月7日に急きょメジャーに昇格。ここから運命が大きく変わる。15試合連続無失点と抜群の安定感でセットアッパーからクローザーに抜擢され、72試合登板で6勝2敗、球団新人記録の24セーブ、防御率2.07をマーク。翌07年も63試合登板で2勝1敗39セーブ、防御率1.40とメジャーを代表するリリーバーに駆け上がる。

 日本では最速153キロだったが、6月26日のダイヤモンドバックス戦で当時日本人歴代最速の159キロを計測。年齢を重ねるごとに球速は落ちていくとされていたが、斎藤は当時37歳。野球界の常識を覆す珍しいケースは身体能力の高さと努力の賜物だった。

「東北の誇り」


現役の最後は故郷である仙台に本拠地を置く楽天でプレー


 メジャーでは7年間プレーし、21勝15敗84セーブ40ホールド、防御率2.34。日本での16年間で91勝81敗55セーブ14ホールド、防御率3.75という成績を残している。   通算成績でNPBよりメジャーのほうが、はるかに防御率が良い投手も珍しいだろう。13年に楽天へ。8年ぶりの日本球界復帰で守護神を務めるなど30試合登板で3勝4セーブ、防御率2.36と球団創設以来初の日本一に貢献。15年限りで現役引退した。

 10月4日、コボスタ宮城で行われた引退試合(対ソフトバンク)では「東北の誇り」と書かれたメッセージボードで満員のスタンドが埋め尽くされた。その光景を見ながら45歳右腕は引退セレモニーで、「皆さんからいただいた、熱い声援は私の魂にかえて、このグラウンドと、このマウンドに置いていきます。後輩たちに全ての思いを託し、新しい第2の人生を歩んでいこうと思っています」とあいさつした。

 引退後はパドレスでインターンとして編成業務に従事。17年からベースボールオペレーションアドバイザー兼パシフィックリムアドバイザーを3年間務め、今季からヤクルトの一軍投手コーチを務めている。

写真=BBM
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