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賛否あったヤクルト・松園尚巳オーナーのファミリー戦略/1972年編

 

 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。

外車も禁止、背広、ブレザー支給と言っても……


ヤクルト・三原監督(左)と中西コーチ


 今回は『1972年2月14日号』。定価は90円。

 サンケイから球団経営を買い取り、4年目を迎えるヤクルトの松園尚巳オーナー(当時はまだヤクルトアトムズ)。戦後、関西より西でしか販売していなかった乳酸飲料「ヤクルト」を瞬く間に全国展開させたやり手経営者で、「金も出すが、口も出す」オーナーと言われていた。
 そもそも71年就任の三原脩監督招聘も長崎県出身の松園オーナーが進めたもの。もともと西鉄ファンで、まずは三原を監督とし、いずれは三原の義理の息子・中西太を監督、三原をGMに移行するプランがあったという。
 71年はチームが最下位ながら、一時は旋風を起こしたこともあって、観客動員は巨人に次いで2位。人件費が巨人に比べ遥かに安いので、
「利益は巨人より多いのでは」
 と言われていた。

 松園オーナーは徐々に「金も出すが」を控え始め、今に続く「家族的雰囲気」の構築を始めた。
 一つは以前も書いたが、チーム年俸の平均化。このオフの契約更改で松園オーナーは、スター選手のアップ率を抑え、ファーム選手の最低年俸を一律で20万円上げると選手たちに宣言した。
「スター選手のアップ率を最大80パーセントに抑えて、その分を下積みのファーム選手に回す。スター選手は自分ひとりの力でスターになったわけではないのだから、下積みの選手たちの面倒を見る義務がある」
 仮に500万の年俸から査定では500万アップの選手が3人いたとする。
 その選手に、
「君は頑張ったから、本来は500万アップだが、下の選手のためだ。400万アップにしてくれ」
 となれば、100万円が3人でファームの15人分のアップ額をクリアできるわけだ。

 さらに言えば上限を抑えれば、翌年の年俸アップも低く抑えられる。
 要は500万が100パーセントアップで1000万、その翌年、さらに100パーセントアップで2000万になるところ、同じ活躍をしても500万が900万、その翌年80パーセントアップなら1620万円となる。なんだかんだで抑えた額が上げる額を上回ることは目に見えている。
 ただ、これが定着すれば、選手たちも自然と「そこまで頑張らなくてもケガをしなきゃいいな」になるかもしれない。
 さらに選手に対し、「プロ野球選手は庶民のアイドルだから国産車に乗れ」とか、「年に2回、背広を作ってやったじゃないか」「ブレザーを与えたじゃないか」と強調していた。

 松園オーナーの中では各地の営業所で汗を流す、ヤクルトのおばさん、いやヤクルトレディと選手を同じように見ていた面があったのかもしれない(そういえば、日生のおばちゃんのCMは好きだった。木星の花って何だろうとは思ったが)。
 加えて、ヤクルト本社内では球団を自分たちの持ち物のように感じていた様子がある。
 記者席で試合を見ていた球団重役が、周りに記者がいても関係なく、
「チクショー、あのヤローはいつも大事なところで打てねえ。いったい何のために高いカネを払っていると思っているんだ。さっさとベンチに引っ込んでしまえ」
 と言って、相手球団の担当記者をあ然とさせることも多かったという(ヤクルト担当は慣れていた)。

 では、また月曜に。

<次回に続く>

写真=BBM
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