週刊ベースボールONLINE

ライオンズ「チームスタッフ」物語

西武ナインの体調管理を22年…“要職”を務める男の“トレーナー人生”/ライオンズ「チームスタッフ物語」Vol.09

 

グラウンドで躍動する選手たちだけではなく、陰で働く存在の力がなければペナントを勝ち抜くことはできない。プライドを持って職務を全うするチームスタッフ。ライオンズを支える各部門のプロフェッショナルを順次、紹介していく連載、今回は選手の体調を管理するメディカルコンディショニンググループのディレクター補佐を紹介しよう。

かつての助っ人との思い出


西武・米田進メディカルコンディショニンググループ ディレクター補佐


 今季からメディカルコンディショニンググループのディレクター補佐を務める米田進に「ライオンズで最も印象深いこと」を尋ねた際、「ケガに関してではないんですが……」と前置きして、2000年に来日したメジャー・リーガーのとあるエピソードに関して話し始めた。

トニー・フェルナンデスなんですけど、彼と一緒にトレーニングをしているとき、通訳がファンレターを持ってきて、われわれの前で読んでくれたんです」

 それは、こういう内容だった。フェルナンデスがヒーローインタビューを受けて、西武ドームのビクトリーロードを上がっているとき、3人の兄弟が目に入った。ファンを人一倍、大切にするフェルナンデスは、その中で一番下の弟に手にしていたバットを渡そうとした。しかし、まだ2、3歳だったその男の子は状況がのみ込めていない。いきなり、大柄な外国人がコミュニケーションを取ろうとして、怖がって受け取ろうとしなかった。兄たちは野球を理解しているし、フェルナンデスのことも認識している。ならば、と代わりに手を差し出してきたが、フェルナンデスはそれを制して、一番下の弟に優しくバットをプレゼントした。

 そのフェルナンデスの行動を間近で見ていた母親が、ファンレターを送ってきたのだ。

「その節はありがとうございました。フェルナンデス選手が一番下の弟にバットを手渡してくれたおかげで、兄2人だけでなく、兄弟3人の宝物になりました……」

 フェルナンデスを怖がったからといって、一番下の弟をのけ者にしない姿勢が母親にはうれしかったのだ。

2000年、西武に在籍していたトニー・フェルナンデス。メジャーで通算2276安打を記録した打撃を日本でも披露した(写真=BBM)


「フェルナンデスは2000安打以上をマークしていましたし、プレーでも、その他の面でも本当にプロフェッショナルでした」

 言葉を継ぐ米田の目にうっすら涙がにじんできた。1年限りでライオンズから去ったが、打率.327、11本塁打、74打点をマークしたフェルナンデス。今年2月、57歳の若さでこの世を去っている。この取材の機会に、フェルナンデスという名選手の人間性をファンに少しでも伝えておきたいと思ったのだろう。米田の心根の優しさが、そこにはにじみ出ているような気がした。

バレーボール部、巨人を経て西武へ


 今年で55歳になった米田は奈良・橿原高3年時に陸上400メートルハードルでインターハイにも出場したアスリートだった。周囲の助言もあり、将来の職業として理学療法士を夢に描き、高校卒業後は行岡医学技術専門学校に進んだ。3年間、みっちりと勉強し、国家資格を取り、星ヶ丘厚生年金病院に就職。理学療法士として一歩を踏み出したが、4年目に転機が訪れる。東洋紡績女子バレーボール部からトレーナーとして誘われたのだ。4年間、チームのために力を注ぐと、今度は巨人からオファーが届いた。

「当時はまだ理学療法士の人数は少なくて、しかもスポーツのチームに専属でついているのも全国でごく少数。だから、僕自身の実力があったというわけではなくて、そういう経験をしている人間がほぼいなかった時代だったということです(笑)。僕自身は小学校の3年間しか野球をやってません。ただ水島新司さんの漫画でプロ野球に興味を持って、特に『あぶさん』が好きで南海を知っていた。そんな私がプロ野球の世界に入ることになり、不思議な感覚でしたね」

 初めて触れたプロ野球選手からは“プロフェッショナル”を感じたという。バレーボール部は全寮で、選手全員が24時間同じ行動をしている。公私の区切りが希薄だったが、プロ野球選手は違う。自分のやるべきことを終えたら、パッと切り替えて球場を後にする。その姿を見て「野球を仕事にする」ことの意味を強く感じたのだ。

 巨人には理学療法士として3年間在籍。そして1998年、ライオンズの一員となった。

 当初はリハビリ組のトレーナーを務めていたが、やはりプロの世界で生き残る選手は体を大切にすることの重要さにいち早く気付くという。

「例えば現役時代の豊田清投手コーチは、普段から生活から人一倍、体に気を使っていました。でも、活躍する選手はみんなそうでしたね。やっぱり、どの選手もプロに入るまでは“野球で一番”だったと思うんですけど、プロはそういった選手の集まり。エリート集団の中から抜きん出るには、何をしなければいけないのか。心構えなどを先輩から学ぶこともあるでしょうが、早く体を大切にすることなどに気が付いて、自分を律するようにならなければいけません」

 米田はアレックス・カブレラが在籍時、背番号42のストレッチも担当していた。2002年には当時の日本記録であるシーズン55本塁打を記録した大砲だ。

「カブレラも体に気を使っていました。ルーティンで行うストレッチそのものが、彼の体の状態チェックになっていたんですよね。でも、大変でした(苦笑)。腕や足、体の全部を使わないと、あの大きな体のストレッチはできない。普通の選手にやったら体が壊れるだろうなというくらいの力を入れていましたね。まるでプロレス技ですよ(笑)」

ケガの予防を万全に


周囲としっかりコミュニケーションを取りながら仕事を進めていく


 トレーナーとしては選手を“観察”することに心血を注ぐ。

「ウォーミングアップのときから、普段と違う動きはないかとトレーナー全員がしっかりと見ています。もちろん、練習前のミーティングで気をつけないといけない選手の情報も共有しています。それと、遂行できているかどうかは分からないですけど、レギュラー、若手で対応に差をつけない。その点は私が常に考えていることです」

 2009年からはコンディショニングコーチとしてユニフォームを着た。

「それまではリハビリ担当だったので、所沢で留守番が多かったんですけど、チームに帯同するようになって経験値としては非常に高くなりましたね」

 一軍で2年、二軍で1年、コーチを務め、またさらに仕事の幅が広がった。さらに昨年からはメディカルコンディショニンググループのディレクター補佐に。球団が「チームのストロングポイントにしたい」と力を入れている部署だ。

「もちろん、ケガが起こらないことが、メディカルコンディショニンググループの仕事になります。映像であったり、トラックマンであったり、トレーナーが取っている日々のデータであったり、いろいろなものを組み合わせれば、目で観察するだけでは分からないものが見えてくるかもしれません。それを予防に生かしたい。プロ野球だけでなく、少年野球で役立つものも見つかったら、しっかりと還元もしたいですね」

 新型コロナウイルス感染拡大の影響で社会が大混乱に陥った。プロ野球も開幕が遅れるなど、例年とは異なるシーズンを送っている。

「最初、選手もピンとこなかったと思います。どこか別の世界で起こっていることなのではないか、と。“他人事”だったのを“自分事”という意識にさせるに苦労しました。自粛期間中、トレーナーも選手と接することができませんでしたから、心配もありましたね。今はもちろん両者がマスクをして、感染対策も万全にして治療を行っています。あと毎日、新規感染者数が発表されていますが、数が増えた、減ったということは関係ない、と。チームから一人、出るか出ないかが重要だということは選手に伝えていますね」

 米田にとってトレーナーは天職だったか聞いてみたが、その答えにも米田の人間性が表れている。

「どうなんでしょう。ケガが回復しなくて引退していった選手もいましたからね。もっとこうしたほうが良かったのではないか、僕じゃなかったらもっと活躍していたのかな、と思うことばかりですから」

 チームのために、選手のために、そして野球界のために――。試行錯誤を重ねながら前に進んでいくだけだ。

(文中敬称略)

文=小林光男 写真=球団提供
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング