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トレード物語

トレード物語 伸び悩んでいた斎藤雅樹を大エースに覚醒させた「女房役」とは

 

「打てる捕手」として名を轟かせ


藤田監督に請われて巨人の一員となった中尾


 投手は1人だけの力では打者を抑えられない。バッテリーを組む捕手も重要な要素になる。沢村賞を3度受賞するなど「平成の大エース」と呼ばれた巨人・斎藤雅樹だが、「ノミ身の心臓」と精神面の弱さを指摘されて伸び悩んでいた時期があった。そのときに恩師の藤田元司監督とともに、女房役として覚醒に導いたのが中尾孝義だった。

 1970年代当時では珍しい「打てる捕手」として名を轟かせていた。滝川高では「三番・捕手」。甲子園出場はならなかったが、ミート能力が抜群だった。練習試合で作新学院高と対戦した際に同学年のエース・江川卓が直球一本で三振の山を築く中、必死に食らいついてファウルで粘った。最後はカーブで三振したが、「江川にカーブを投げさせた男」として同校で語り継がれた。高校卒業後は慶大を受験したが不合格に。1年浪人して再び慶大を受験したが落ちたため、専大に入学した。78年の春季リーグで同学年の堀田一彦、1年生の山沖之彦(元阪急)ら強力投手陣とバッテリーを組み、25季ぶりのリーグ優勝に貢献してMVPを獲得。東都大学リーグ通算打率.300、13本塁打を記録した。社会人・プリンスホテルを経て81年に中日にドラフト1位で入団する。

中日時代は82年の優勝に貢献し、MVPに輝いた


 プロ1年目からその活躍は鮮烈だった。新人で当時の正捕手だった木俣達彦からレギュラーの座を奪い、116試合に出場。2年目は119試合出場で打率.282、18本塁打をマークし、守りでも内角を要求する強気のリードで盗塁阻止率.429と投手陣を引っ張った。前年6勝だった都裕次郎が16勝で最高勝率のタイトルを獲得したのは中尾の力も大きかっただろう。チームを8年ぶりのリーグ優勝に導き、セリーグで初の捕手でMVPに輝いた。

 だが、正捕手の座をつかみきれない。原因は故障の多さだった。当時は本塁上での走者と守備側の衝突によるケガを未然に防ぐ「コリジョンルール」が導入されていなかったため、大男たちの本塁突入に体を張ってブロックしなければいけなかった。身長173センチと決して大柄ではない中尾は何度も吹っ飛ばされ、戦線離脱した。球団も打撃センスを生かしたい思惑があったのだろう。守備の負担が少ない外野に88年からコンバートされた。

 同年オフ、巨人は藤田監督が新監督に就任。補強ポイントとして、衰えの見えてきた山倉和博に代わる捕手を挙げ、捕手にこだわりを持っていた中尾に目をつけた。中日・星野仙一監督からは「西本聖+若手投手」の条件でOKの返事が来た。フロントの一部からは「西本は闘志をむき出しにして巨人に対してくるはずだ。中日に出していいのか」という声もあったが、藤田監督は「ライバルチーム同士でも、こういったトレードをすることが球界の活性化につながる。そういうことを気にする時代じゃない」ときっぱり。中尾は西本、加茂川重治とのトレードで巨人に移籍する。

斎藤が初の20勝をマーク


 捕手に復帰した移籍1年目の89年。新天地でも強気のリードで投手陣を牽引し、正捕手の座をつかんだ。一軍と二軍を往復し、「トレード要員」とも揶揄されていた斎藤雅樹に内角を突くように要求。斎藤は精神面の弱さが課題とされていたが、「絶対に構えたところに投げろとは言えない。内角付近でいい」と心理的負担を軽減したことで躍動感を取り戻した。

 この年の斎藤は11試合連続完投勝利を含む20勝と圧巻の成績でリーグMVPを獲得している。中尾の活躍でチーム防御率は12球団トップの2.56を記録し、8年ぶりの日本一に貢献。トレード相手で同年に20勝を挙げた中日・西本とともにカムバック賞を受賞し、「両球団が得した最高のトレード」と評された。

92年シーズン途中に巨人から西武へ移籍


 90年以降は再び故障が続き、出場機会が減り続けた。92年のシーズン途中に、大久保博元とのトレードで西武に移籍。93年限りで現役引退した。プロ13年間の野球人生で980試合出場、打率.263、109本塁打、335打点。故障に泣かされたが、「打てる捕手」の先駆者として駆け抜けた活躍は色褪せない。

写真=BBM
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