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全盛期の直球は衝撃! 巨人で守護神務め、落合中日でも重宝された右腕とは

 

守護神抜擢で日本一に貢献


巨人では思うような結果を残せなかったが、その打撃術は一目置かれていた


 快速球で思い浮かぶのが今季限りで現役引退を表明した阪神藤川球児だ。打者の手元で浮き上がるような軌道は「火の玉ストレート」と呼ばれ、打者は「分かっていても打てない」と脱帽するほどだった。また、藤川と同様に引退を発表したヤクルト五十嵐亮太も2004年に当時日本最速タイの158キロを記録するなど剛速球で打者をねじ伏せてきた。ともに球界を代表するリリーバーとして活躍してきたが、この男も全盛期の直球はすごかった。巨人、西武中日でプレーした河原純一だ。

 河原は県立川崎北高に進学し、3年夏に準々決勝・厚木高戦で相手エース・川村丈夫(現DeNA一軍投手コーチ)と投げ合って延長16回戦の死闘の末に240球で1失点完投勝利を飾る。横浜高、東海大相模、桐蔭学園、慶應義塾、日大藤沢など強豪校がひしめき、「全国一の激戦区」と呼ばれるほど神奈川県の高校野球はレベルが高い。その中で公立同士の戦いにもかかわらず、河原と川村の投手戦は「神奈川の高校野球名勝負」として現在も語り継がれている。

 甲子園出場はならなかったが、県内屈指の右腕として駒大に進学。東都リーグ通算23勝をマークし、3度の最高殊勲選手に輝くなどエースとして活躍し、4年時も日米大学野球で好投して最優秀投手に選ばれた。95年にドラフト1位で巨人に入団すると、1年目から8勝をマーク。うち3完封はすべて阪神戦で「3連続」でもあった。

 その後は右肩痛、右ヒジ痛と度重なる故障で96〜01年までの6年間で計12勝と苦しんだが、02年に就任した原辰徳監督に守護神に抜擢されると、49試合登板で5勝3敗28セーブをマーク。細身の体躯から繰り出されるスピンの効いた快速球は140キロ台前半とほかの投手に比べて球速自体は速くないが、キレ味が違った。手元で伸びる球に打者のバットが空を切る。解説者の掛布雅之氏が「ホームベース上でボールが生きていますね」、江川卓氏が「今日のボールは打てないですね」と絶賛するほどだった。スライダーとのコンビネーションで三振奪取率が高く、日本一に大きく貢献した。

 マウンド上で喜怒哀楽を表さない振る舞いで「鉄仮面」と形容されたが、毅然とした姿に貫録が漂っていた。だが、輝きが長く続かない。翌03年以降は守護神で結果を残せず、05年オフに後藤光貴との交換トレードで西武に移籍。西武ではケガもあり目立った結果残せず、07年オフに戦力外通告を受けた。12球団合同トライアウトへ参加するも獲得球団は現れず。当時32歳だった。

浪人生活を経て中日で復活


09年、テストを経て中日に入団した


 河原はこのまま終わらなかった。駒大の恩師・太田誠元監督に身の振り方を相談。母校の理解を得て、駒大野球部の施設で練習をさせてもらえることになった。とはいえ、プロとアマの壁は気になる。学生と一緒に汗を流したわけではなく、部の練習時間とはずらし、一人でひたすら走った。狙うは08年秋のトライアウト。しかし受験前に駒大の先輩でもある中日・森繁和チーフコーチが「テストを受けに来ないか」と声をかけてくれた。落合博満監督も見守る前で河原は投げ、その場で入団が内定した。

 09年、推定年俸600万円で入団。落合監督は「河原には経験がある。それならどこかで使わないと。使うなら一番苦しいところで投げさせればいいんだよ」と言ったが、河原はその期待に応え、移籍1年目は44試合登板で3勝15ホールド、防御率1.85と救援で抜群の安定感を見せた。11年限りで中日退団後は独立リーグ・愛媛でプレー。15年は右肩痛でシーズン開始直後に練習生に降格し、公式戦登板なしで現役引退を発表した。

 NPB通算275試合登板で31勝42敗40セーブ27ホールド、防御率4.26。全盛期の直球は美しかったが、故障に苦しんだ時間のほうが長く、2度の戦力外通告を受けた。浪人生活も味わった。試練にも心が折れず42歳まで現役を全うしたのは野球が、投げることが心から好きだったのだろう。愛媛の監督に17年から就任して今年が4年目。独立リーグ日本一とNPBに多くの選手を送り込むことが目標だ。

写真=BBM
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